『月光とアムネジア』(牧野修/ハヤカワ文庫JA)
今年は、記憶がきわめて短時間しか保持できないとか、思い出が急速に失われてゆくとかいった障害や疾病を抱えた人を描いた小説が相次いで映画化されていて(おれはいずれも読んでも観てもいないのだが)、おそらくこの作品もそうした一種のブームにインスパイアされて書かれたものであろうと思われるのだが、いつものように、牧野修の手にかかると、流行りもののネタがとんでもない方向へと広がりを持ちはじめる。牧野修は、着想の元になる部分では、流行りものに乗っかることをまったく意に介していない。むしろ、「おお、ここにちょうどよい形の木ぎれがたくさん落ちている」とばかりに、流行りものを嬉々として拾ってくる。一夜明けると、同じ木ぎれを拾って帰った人が誰も想像だにしなかった禍々しくも蠱惑的な彫刻が牧野家の居間を飾っており、客人は仰天するという寸法だ。
特殊空間が自然現象として直径数キロにわたって出現するのである。天気のようにだ。その空間〈レーテ〉に入ると、人間の記憶は三時間ごとに“リセット”されてしまい、それを繰り返しているうちに人間は重篤な認知障害を負うようになる。こうした問答無用の設定だけならSFにはよくあることで、面白くもなんともない。面白いのは、この設定下で繰り広げられる、謎の殺人者・町田月光夜と、その捕獲もしくは抹殺を命じられた特務部隊との虚々実々の駆け引きである。
うっかりネタばらしすると、「よくも読む楽しみを奪いやがったな」と未読の誰もがおれに殺意を抱くだろうほどに面白いのでなかなか紹介が難しいのだが、この〈レーテ〉という設定だけが問答無用で降ってくるだけであって、それ以外のすべてはきわめて論理的に緻密に組み立てられている点がすごいところだ。ミステリとしても秀逸である。あなたが充分に論理的であれば、常に“半歩先”をかなり正確に推理しながら読み進められるはずだ。奇妙なことに、〈レーテ〉の設定なくしては展開できるはずがない話が展開するにもかかわらず、こういうふうに展開するつもりでなければ、そもそも〈レーテ〉の設定を活かしきることができないはずの話が展開する。ややこしいが、不思議なほどに整合性が取れている。おそらく、設定からプロットを演繹していったのでも、プロットに都合のよい設定を捻くり出したのでもなく、全曲想が一瞬にして降りてきたというモーツァルトのように、この作品のアウトラインは、いっぺんにイメージとして牧野修に振ってきたにちがいない。そこから論理で細部を作ってゆくと、これが不思議なほどにぴたりぴたりと美しく論理的にハマったのだろう。面白い作品というのは、そういうものだ。小賢しくなく、神がかりすぎない。
キレのよい短文を畳み掛けてゆくヘミングウェイのような、夢枕獏のような語りを、牧野修独特の妖しい語感が彩り、濃密なスピード感を効果的に醸し出している。“濃密なスピード感”とはどういうものかと言いますとですな、ページを繰る手ももどかしいほどに速く読まされているように感じるのに、実際には思ったほどの分量を読んでいないという感じだ。ちょうど、夢の中で怖いものに追われているとき、必死で走っているのに全然前に進まないといった感覚に似ている。
すごく論理的な悪夢から覚めたかのような読後感である。これが三百ページに満たない作品だとは、読み終えてから振り返ってみると、とても信じられないと思う。手品みたいな作品である。これはSFファンだけではなく、ミステリファンにもホラーファンにもお薦めだ。
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コメント
あと牧野修さんならではの、独特の言語感覚もみることができますね。
投稿: 林 譲治 | 2006年9月25日 (月) 09時23分
>林譲治さん
あの、現実にはまずお目にかからない奇妙な名前は、神林長平みたいですね。
いやしかし、あの“人工方言”は癖になる。喫茶店でずっとあのノリでしゃべるという縛りをかけて議論をしたらさぞや面白いことでしょう。うまく真似できるかどうかが問題ですが。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年9月25日 (月) 23時32分