どこかでどこかでエンジェルが……
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▼'You Only Live Twice' actor dead (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2006/SHOWBIZ/Movies/09/27/film.japan.reut/index.html
TOKYO, Japan (Hollywood Reporter) -- Japanese actor Tetsuro Tamba, best known internationally for playing dapper spymaster Tiger Tanaka in the 1967 James Bond picture "You Only Live Twice," has died in Tokyo. He was 84.
あ、うまいねー、この記事の見出し。これはちょっと日本語ではできない藝だなあ。単に事実を述べているだけなのに、故人にピッタリの紹介になってしまっているあたりがニクい。書いた本人も、そのつもりは全然なかったりして。
丹波哲郎氏に於かれては、もしもほんとうに“あっちの世界”があったんなら、いまこそぜひ、こっちの世界にコンタクトを取っていただきたいものである。そうだな、まず、なんといっても、いちばんに嘉門達夫のところへ出てほしい。
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▼杉田かおる50代マスコミ関係者と不倫!? (nikkansports.com)
http://www.nikkansports.com/entertainment/p-et-tp0-20060926-95360.html
男性は昨年8月に離婚した投資会社社長鮎川純太氏(46)から民事訴訟を起こされている大手出版社の幹部。「離婚に関する報道で起こされた裁判に証人出廷してほしいと協力を頼まれた。断るために自分が呼び出して飲んでたら発情しちゃった」と説明した。男性に申し訳なかったと、謝罪を繰り返したが「最近ネプチューンのホリケン(堀内健)をラブホに連れ込もうとしてビビる大木君に止められた」と得意の下ネタギャグも交えた。
いやあ、もう、こんなキャラになっちゃうと怖いもんなしというか……。「発情しちゃった」ってのがいいですね。いや、おれ、杉田かおるのこういう豪快なところ、好きだよ。
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どう考えても自明のことをわざわざ解説してある本なのだが、ひょっとするとまだ高度成長期のままのつもりで頭が止まっている人がいるやもしれないので、一応お薦めしておく。若い人は読まなくたってわかってるだろうと思うが、まだ騙されている純朴な若者もいるやもしれないので、やっぱり一応お薦めしておく。低成長あるいは横這い経済の人口減少社会で、年功序列などというシステムが瓦解せずにすむと思っている阿呆がまだいるとはとても思えないのだが(年金制度を見よ!)、万が一そういう人がいるといけないので、しつこく一応お薦めしておく。
とはいうものの、ここに書かれていることは、おれの目の前でいままさに起こっていることであるので、なんともやりきれない話ではある。金になると固く信じていた手形が空手形だと、ようやく気づいた人のショックはいかばかりであろうか。まことにお気の毒なことである。おれなんぞは、なんとかサラリーマン社会に潜り込んだけれど、最初から年功序列などというおめでたいシステムの恩恵に与ろうなどとはまったくアテにしておらず、仕事のふりをして楽しく社会観察をしながらひたすら趣味に生きてきたので、いまだに安月給である。空手形だと知ったうえで摑まされているからショックなどない。
おれは年功序列というシステムを知ったとき、子供のころに学んだ賢者の言葉が頭をよぎり、このシステムをけっしてアテにしてはならないと決心した。『ウルトラマン』にケロニアが出てきたとき、なんたら博士が言っていたではないか――「いくら高度に発達しても、血を吸って身を肥やすのは、もはや文明とは言えないのですから……」と。低成長期における年功序列とは、おれたちのような年寄りが若者の血を吸って生きるためのシステムなのだ。若いうちに“我慢”したご褒美が、四十過ぎてからどっともらえるなどという幻想を、若い人はけっして抱いてはならない。まあ、抱いてないから、三年で辞めちゃうんだろうけどね。それはある意味、正しいかもしれない。日本の企業経営者や政治家たちがその意味に気づいてくれるかどうかが問題だが……。しかし、どこかに“もっとましな吸血システム”があるはずと期待してのことなら、それは三年で辞めないよりもさらに愚かな行為だろう。
十三年前にドラッカーに言われて、四年前に上野千鶴子に言われて
も、ま~だ気づかず、「採用したと思ったら三年も保たずに辞めてゆく。最近の若いもんには困ったもんだ」などと頓珍漢なことを言っている血のめぐりの悪い経営者と人事担当者には、とくにお薦め。
若い人にとっては、「よくぞ言ってくれました」という書だろう。本書を読んでようやく蒙を啓かれているような鈍い若者は、油断していると老人に血を吸われるぞ。おれもどっちかというと老人の側だ。血ぃ吸うたろか?
いや、つまるところ、若人よ、死ぬときに、誰の評価でもなく、“自分”の心の底から「ああ、おもろかった」と言える人生こそが、ほんとうの勝ち組の人生なのさ。“ふつうの人”だの“人並みの人”だのは、どこにもいない。そんなありもしないものに自分の生きざまを振りまわされるのはアホらしいとは思いませんか?
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“生活者”という不思議な言葉がある。いや、海外生活者とか給与生活者とか、頭になにかがつくのであればなんの違和感もないのだよ。おれが子供のころから奇妙だなあと思っているのは、“生活者”が単独で使われる場合なのだ。「われわれは生活者の立場で、この弱者切り捨て政治を……」とか言う場合のことである。
そもそも、生活していない者が、いまここでこうして話に加わっているはずもなく、文字を読んでいるはずもない。おれはいまだかつて、生活者の立場にない人とコミュニケートしたことはない。
“生活者”の対義語はなんになるのだろう? “死者”か? いや、そうじゃないよな。“死者”の対義語は“生者”だろう。“死滅者”かな? でもないよな。“活”の反対は“滅”じゃないだろう。“滅”の逆は“盛”だと思うな。
となるとやはり、“生活者”の対義語は“死活者”が妥当だと思われる。「わたしたちわぁ~、生活者の立場でぇ~」と駅前で演説しているどこぞの政党の人の陸橋を挟んだ向かいがわで、「われわれわぁ~、死活者の立場から~、生者と死者の格差社会を~、断じて許すことができないのでありまーす!」と生活者に負けじと力んで声を張り上げている人の腐りかけた右の眼球が土で汚れた包帯のあいだからぼとっと落ちてころころとおれの足元へ転がってきたら厭だな。
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今年は、記憶がきわめて短時間しか保持できないとか、思い出が急速に失われてゆくとかいった障害や疾病を抱えた人を描いた小説が相次いで映画化されていて(おれはいずれも読んでも観てもいないのだが)、おそらくこの作品もそうした一種のブームにインスパイアされて書かれたものであろうと思われるのだが、いつものように、牧野修の手にかかると、流行りもののネタがとんでもない方向へと広がりを持ちはじめる。牧野修は、着想の元になる部分では、流行りものに乗っかることをまったく意に介していない。むしろ、「おお、ここにちょうどよい形の木ぎれがたくさん落ちている」とばかりに、流行りものを嬉々として拾ってくる。一夜明けると、同じ木ぎれを拾って帰った人が誰も想像だにしなかった禍々しくも蠱惑的な彫刻が牧野家の居間を飾っており、客人は仰天するという寸法だ。
特殊空間が自然現象として直径数キロにわたって出現するのである。天気のようにだ。その空間〈レーテ〉に入ると、人間の記憶は三時間ごとに“リセット”されてしまい、それを繰り返しているうちに人間は重篤な認知障害を負うようになる。こうした問答無用の設定だけならSFにはよくあることで、面白くもなんともない。面白いのは、この設定下で繰り広げられる、謎の殺人者・町田月光夜と、その捕獲もしくは抹殺を命じられた特務部隊との虚々実々の駆け引きである。
うっかりネタばらしすると、「よくも読む楽しみを奪いやがったな」と未読の誰もがおれに殺意を抱くだろうほどに面白いのでなかなか紹介が難しいのだが、この〈レーテ〉という設定だけが問答無用で降ってくるだけであって、それ以外のすべてはきわめて論理的に緻密に組み立てられている点がすごいところだ。ミステリとしても秀逸である。あなたが充分に論理的であれば、常に“半歩先”をかなり正確に推理しながら読み進められるはずだ。奇妙なことに、〈レーテ〉の設定なくしては展開できるはずがない話が展開するにもかかわらず、こういうふうに展開するつもりでなければ、そもそも〈レーテ〉の設定を活かしきることができないはずの話が展開する。ややこしいが、不思議なほどに整合性が取れている。おそらく、設定からプロットを演繹していったのでも、プロットに都合のよい設定を捻くり出したのでもなく、全曲想が一瞬にして降りてきたというモーツァルトのように、この作品のアウトラインは、いっぺんにイメージとして牧野修に振ってきたにちがいない。そこから論理で細部を作ってゆくと、これが不思議なほどにぴたりぴたりと美しく論理的にハマったのだろう。面白い作品というのは、そういうものだ。小賢しくなく、神がかりすぎない。
キレのよい短文を畳み掛けてゆくヘミングウェイのような、夢枕獏のような語りを、牧野修独特の妖しい語感が彩り、濃密なスピード感を効果的に醸し出している。“濃密なスピード感”とはどういうものかと言いますとですな、ページを繰る手ももどかしいほどに速く読まされているように感じるのに、実際には思ったほどの分量を読んでいないという感じだ。ちょうど、夢の中で怖いものに追われているとき、必死で走っているのに全然前に進まないといった感覚に似ている。
すごく論理的な悪夢から覚めたかのような読後感である。これが三百ページに満たない作品だとは、読み終えてから振り返ってみると、とても信じられないと思う。手品みたいな作品である。これはSFファンだけではなく、ミステリファンにもホラーファンにもお薦めだ。
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▼女性の3割、「秋の七草は…」=一つも言えず-ロート製薬調べ (時事ドットコム)
http://www.jiji.co.jp/jc/c?g=soc_30&k=2006092100851
女性の3割以上が「秋の七草」をまったく言えない-。ロート製薬が21日発表したアンケート結果からこんな実情が浮かび上がった。ススキやキキョウなど日本人になじみ深い存在だった秋を代表する7つの草花が、徐々に忘れ去られているようだ。
な、情けない。そんなもん、オギ、ヤハギ、礼、智、忠、信、孝、悌に決まっている。なに、八つある? 少ないと困るが、多いのはべつにかまわないじゃないか。
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▼「渋谷公会堂」改め「C・C・レモンホール」に (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/update/0920/019.html
サントリー(大阪市)と電通は20日、「渋谷公会堂」(東京都渋谷区)のネーミングライツ(命名権)を取得したと発表した。同公会堂は10月1日、サントリーの商品名にちなんだ「渋谷C.C.Lemon(レモン)ホール」となる。数多くのコンサート開催やテレビ番組の公開生放送で知られ、「若者の街・渋谷」を代表する渋谷公会堂は、42年の歴史で初めて名称が変わる。
し、C.C.レモンホールぅ? 言いにくいなあ。どうせなら、「なっちゃんホール」とかにすればよかったのに。待てよ、カタカナで書かれるとなんだか“穴”のほうを連想しないでもなく、やっぱり総合的にいろいろ不都合か。「伊右衛門ホール」だと、ますます妖しいイメージが……(をい)。
いや、なにを隠そう、おれは渋谷の生まれなのだが、三歳までしか東京にはいなかったもんだから、渋谷のことはほとんど記憶にない。どのみち渋谷公会堂なんて行ったことないし、おれの日常生活とはなんの関係もないので、言いやすかろうが言いにくかろうが、ま、どうだっていいのだ。
大阪城ホールが「デカビタCホール」かなにかに変わるとでもいうのなら、さすがに反対するけどな。大阪城ホールの名前を変えるとしたら、「満月ポンホール」なんかはどうだろう? 関西らしくていい。もっとも、天童よしみばっかりがいつも唄ってそうなイメージだけどな。
それにしても、「渋谷C.C.Lemonホール」なあ……。字面が汚いことおびただしいな。
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リセッシュという消臭剤のCMで、ものすごいことを言っていた――「リセッシュが空間にもできるようになりました」
これはすごい。物理学を根底から覆す大発明である。そもそも空間に臭いがあったというのも驚きだが、その空間を消臭できるというのだから、アインシュタインもびっくりだ。
元から空間にある臭いを部分的に消せるということは、空間をマーキングできるということだ。すなわち、リセッシュは、空間に絶対座標の楔を打ち込むことができるのだ。将来、ワープ航法やタイムマシンが実用化される際には、きわめて役立つ技術になるにちがいない。リセッシュでマーキングした空間を原点として座標を組み立てれば、相対性などという世迷い言の呪縛から人類は解放される。絶対空間・絶対時間が、シュッとひと噴き、手軽に作れるのである。
そうかあ、空間にもできるようになったかあ!
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▼111歳・男性長寿日本一に37歳市長がお祝い (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0918/SEB200609180024.html
男性の長寿日本一、宮崎県都城市の田鍋友時さんが敬老の日の18日、111歳の誕生日を迎えた。直径30センチの特大ケーキが贈られ、長峯誠市長も駆けつけた。
4月まで国内最年少市長だった長峯氏は37歳。3倍の年齢になった田鍋さんに祝いの賞状を手渡したが、じっくり目を通され、「字が違っていたかな」と冷や汗。
市長も洟垂れ小僧ですなあ。
これはこれで、敬老の日のニュースとしてはめでたいことにはちがいないけれども、正直なところ、予知能力者かなにかがほんとにおって、「あなたは百十一歳まで生きます。いえ、それ以上生きます」などと言われたら、あなた嬉しいですか? おれは相当げんなりすると思う。二十代後半くらいの身体のままで百十一まで生きられたら、そりゃあ楽しいだろうけれども、そんなことはあり得ないわなあ。
おれはまあ、五十か、遅くとも六十くらいまでに死ねたらいいと思っている。いま死ぬのはちょっと惜しいが、べつにいま死んでも早すぎることはないくらいに感じている。痛いのや苦しいのは厭なので、一瞬にして死にたいもんだ。とはいえ、せっかくもらった命を粗末にしては、生きたいのに生きられなかった人たちに失礼なので、生きているかぎりは、生き続ける努力をするのが義務だと思っている。が、あまりにも意地汚く生きていたいとも思わない。
この先あんまり個人的な楽しみはないのだが、SFファンとしては、人類が着実に一歩を踏み出すいくつかのシーンは、できるかぎり見てみたいと思う。癌を克服するとか、“人工実存”((C)小松左京)を作り出すとか、人格を機械にアップロードできるようになるとか、火星に降り立つとか、木星の周回軌道に達するとか、そういったことどもだ。やっぱりおれたちの世代は、多感な少年時代に、“人類が初めてほかの天体に降り立つ”という、ものすごい節目を目の当たりにしているせいか、これからの人生にも、一度や二度はあれに匹敵する事件を体験したいという気持ちがすごくあると思う。少なくとも、おれにはある。おれが、あんまり熱心に生きていないくせに、あわよくば長生きできるに越したことはないと思う理由は、考えてみればそれだけなのである。
そのときには、「♪今日、人類が初めて~、木星に着いたよ~」と唄ってやろうと思っている。「おまえら若いもんは知らんじゃろうが、むかーし、こんな歌があってなあ……」
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子供のころからずっと、いまだに憑りつかれているイメージなのだが、道を歩いていると横合いの叢からでっかい昆虫が飛び出してくるというものなのである。でっかいといっても、二十センチや三十センチではない。一メートルくらいのバッタとか、二メートルくらいのトンボとか、そういうものだ。
なぜか、どこかに、とてつもなくでっかい昆虫がいるのだというイメージが襲ってくる。なんなんだろうね、これは? いっそ、巨大昆虫に憧れているといってもよいかもしれない。どこかにでっかいネコがいるなどとけっして思ったりはしないのだが、それが昆虫であれば、どれほど常軌を逸したものがいても不思議ではないような思い込みがある。わかる人はわかってくれるだろうが、わからん人にはわからんでしょうなあ。そりゃ、本人だって、なんでこんなイメージに憑りつかれているのかよくわからないのだ。
外骨格の生物がそれほど巨大になれるはずがないということは、理屈ではたしかにわかっているつもりだ。仮に巨大になったとしたら、それこそ「セラミック刀が欠け」るほど硬い外殻が必要になることだろう。王蟲ほどの大きさの昆虫が可能であったとすれば、ただ硬いだけの外骨格では足らないと思う。あれだけの速さで走るのだ。“たわみ”を吸収するだけの弾性も具えていなければ、鋳物のように脆性破壊を起こすにちがいない。王蟲が走り出そうとすると、ピシッと音を立てて音速を超えるほどのスピードで外骨格にヒビが走り、たちまち真っぷたつになる。中から、どろどろどろどろどろどろっとぐちゃぐちゃぬとぬとした体液やら内臓やらが流れ出してくる。それはそれでたいへん魅力的なイメージではあるのだが、そうなるようでは巨大昆虫は実現できない。
十メートル二十メートルと贅沢は言わない。せめて一、二メートルくらいの昆虫を一度でいいからこの目で見てみたいものである。これはもう、理性を超えた、理不尽な強迫観念のようなものだ。遠い未来に、重力の小さいテラフォームした植民惑星で、二メートルくらいのカブトムシが樹液を争って闘っている姿を想像したりする。
同じようなイメージに憑りつかれている人は、案外たくさんいそうな気がするんだけどなあ。
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昨夜は、ひさびさにサンマを食った。あとは、焼き豚とサラダ。サンマの右下あたりに盛ってあるのは大根おろし(冷凍パックの便利なやつだ)。焼き豚の右下あたりに盛ってあるのはワサビである(おれは肉にはワサビ派なのだ)。カロリーがすごそうなので、米はまったく食わず、焼酎お湯割りでサンマをじっくり味わう。サンマには日本酒の熱燗が最高なのだが、買い忘れたのだ。ま、焼酎でも悪くはない。日本の酒にはちがいないしな。
今回のオペは大成功だった。「マンガに出てくる乞食がゴミ箱の中を漁ったあと頭の上に乗せているかのようなサカナのホネ」を、みごとにふたつも作ることができた。あんまり脂の乗った大物ではないが、このほうが身体にはよさそうだし、味もなかなかのものだった。このサンマは、焼いた状態のが二尾で三百円。これほどコストパフォーマンスの高い動物性蛋白もちょっとないと思う。
サンマのパックにかけてあったラップを見ると、「北海道産」と書いてある。漁師さんたちがロシアの船に撃たれそうになりながら獲ってきたものであろうか。おれは宗教というものがまったくわからないし、わかりたくもない人間ではあるが、こういうものを粗末に扱うと“なにかに対して悪い”という感覚はある。母なら“バチが当たる”と表現するだろう。実際にはバチなど当たらんが、そう表現する感覚はおれにも理解できる。むかし星新一が、雑誌なら捨てられるのに、本を捨てるとバチが当たりそうな気がするといったことを書いていたが、その感覚もよくわかる。
以前のエントリー「死骸を食うこと」で書いた『「こうしてご飯が食べられるのも、ほかの生きものが死んでくれたおかげだ」と常に意識しているのは、存外に大切なことではないかという気がするのだ』に直結するのだが、子供には“これは生きものの死骸だ”とあきらかにわかる姿の食いものを、たとえ嫌がってもたまには食わせるのが教育的にはよいのではないかとおれは思う。たいていの食べものはもともとはほかの生きものだと、頭ではわかっていても、とくに現代の子供には実感が湧かないだろう。生きものの死骸に箸を突き立て、自分が生きるために食うという体験をしばしばさせるべきだと思う。
「給食費を払っているんだから、子供に“いただきます”などと言わせないでくれ」と学校に文句をつけた親がいるというのが以前あちこちで話題になったけれど、親の中にもこういう人がいるくらいであるから、子供となれば推して知るべしである。この親御さん、バカとは言わんが、きわめて精神性が乏しい人ではあるでしょうな。日本語の「いただきます」は、人に対してだけ言っているものだと思い込んでいるわけだ。こういう人は、「ありがとう」も、人に対してだけ言っているんでしょうなあ。つまり、この親御さんのような人は、日本語を正しく身につけているとは言えないのである。
学生のころに学習塾でアルバイトをしていたとき、「センセー、“いただきます”って英語でなんて言うんや?」と問われて、「そういう習慣そのものがないから、ぴったり当てはまる言葉はないなあ。敬虔なキリスト教徒やったらお祈りしてから食うわな。まあ、あのお祈りをひとことで言うようなもんやろ、“いただきます”は」などとお茶を濁したもんだ。あえて訳せばどうなるかね? Thank everything for letting me be here and now. といった感じか?
「もったいない」を世界的に広めてゆこうという動きもあるいま、「いただきます」もそうしてはどうかと思うぞ。かくいうおれも、飯食うたびにいちいち口に出して言ったりはしないんだが、心内発声するようにはしている。子供がいたらきっと、教育の一環として、自身も口に出して言うようにしただろうね。
というわけで、今日の晩御飯には、サンマの死骸などいかがです?
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iTunes 7 が出たので、さっそくバージョンアップしてみた。画面が落ち着いた色合いになって、文字も見やすくなり、なかなかいい感じだ。
アルバムのジャケットアートを次々と鑑賞できる「Cover Flow」って新機能はじつにいい。ダウンロードして買う音楽のなにが不満かというと、ジャケットがない点である。あれは本のカバーと同じくらいに立派な藝術の一分野なのであって、ジャケットだけ次々見ていったって充分楽しめるものである。その不満な点をちゃんとカバーしてくれるとは、さすがはアップル、たいしたもんだ。
Cover Flow 機能をオンにすると、上のキャプチャー画像のようになる。なにも操作をしないと、現在流れている曲が収録されたアルバムのジャケットが中央にくるが、その状態でも、ほかのアルバムのジャケットアートだけを、いま聴いている曲とは関係なく、マウスやキーボードの操作で次々と自由に見てゆける。しばらく操作をしないと、いま流れている曲に対応するジャケットアートが自動的に画面中央に戻ってくるというしかけ。
おれは、パソコンの前にいないときにも、しばしば漫然とBGMをパソコンで流しているのだが、パソコンの前に座ってゆっくりじっくり音楽を聴くときに覚える、そこはかとない“目持ち無沙汰”な感じが、この機能によって解消されそうだ。音楽を聴きながらカバーも楽しむってのが、やっぱりいいですな。ちょっとアナログな風味が薫って、なんだか懐かしい感じさえする。そうだよなあ、むかしはジャケット眺めながら聴いてたもんだよな、音楽ってのは。
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おれが住民税を払っている京都市という地方自治体などは、たいへん熱心に経費の節減に取り組んでいるよ。市の職員の中から五か月のあいだに十人もの逮捕者を出し、そのうち何人かは懲戒免職にした。なかなか辞めさせられない公務員の首を、これほど効率よく切り続けている自治体も、そうはないだろう。これほどのハイパフォーマンスを得るには、やはり厳格な数値目標を定めて粛々と逮捕者が出るように日夜努力しているにちがいない。「月に平均二人は逮捕されるように」とかなんとか厳しいノルマがあり、管理職には猛烈なプレッシャーがかかっているのだろう。ご苦労さまなことだ。市民のために血の滲むような努力をしているわけであって、住民税の払い甲斐があるというものだ。
しかも、そのように上から言われていることを粛々と執り行っているだけではない。なにしろ、京都市の職員はモチベーションがちがう。先進的な民間企業のやりかたも積極的に取り入れているようだ。たとえば、不祥事で免職にした職員をほとぼりが冷めたころにこっそり雇い直すといった手法などは、JR西日本のような優良民間大企業から学んでいる。それにひきかえ、一万円札の束を燃やして、いたずらに二酸化炭素を増やしているという岐阜県などは、まったくもってけしからん。京都議定書をなんだと思っているのだろう。
逮捕者も、飲酒運転などといったせせこましい悪行で捕まっているのは、市の職員の中でも三下の部類に入る輩であって、こちらが声をかけても気づかぬほど熱心に新聞を読んで情報収集と自己研鑽に余念のない優秀な職員は当然国際感覚も豊かで、隣国からも積極的にノルマ達成のための手法を学んでいる。税金を使って覚醒剤の普及にこれ努めるなど、凡庸な頭脳ではとても思いつかない方法である。やはり北朝鮮から学んでいるにちがいない。他の自治体に出し抜かれぬよう、宮津あたりからこっそりと職員を研修に行かせているのではないかとおれは推測している。
まあ、京都市というのは、かくもモチベーションの高いパブリック・サーヴァントたちが、わが身を賭して古都の伝統と文化と市民の生活を守っているので、多少住民税が高いくらいで文句を言ってはならない。住めば都である。京都へ引っ越そうと考えている方々、ぜひお越しやす。
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むかし「痴漢は犯罪!」という車内吊り広告を初めて見たときには仰天したものだが、かくなるうえは、改めてみんなで言っておいたほうがいいと思うのだな。いや、絶対知らない人が多いんだってば。学校で習わないんだろうし。
とはいうものの、なにやら最近、にわかに飲酒運転による事故が(とくに公務員による事故が)増えたような印象を受けるけれども、例の福岡の悲惨な事故をきっかけに、これでもかこれでもかと“報道が増えている”だけのような気がしてならない。そんなもん、急に増えたり減ったりするかよ。飲酒運転による事故なんて、ずっと同じように起こっているし、その中には公務員の起こした事故もずっと同じようにたくさんあったんだろうよ。福岡の事故が起きるまで、ひとえに“画(え)的に、ストーリー的に面白くなかったから”マスコミが報道しなかっただけでしょ? あまりにありきたりの事故すぎて。そう考えると、飲酒運転は犯罪であり、犯罪であろうがなかろうが、自分自身はもちろん、いろんな人を不幸にするだけのとんでもない行為であるという単純な事実を、これでもかこれでもかと刷り込んでこなかったマスコミも怠慢だったのではないのかいなと思えてきますな。
マスコミに於かれては、「喫煙は身体に害があり、吸わない人まで巻き込んでしまうけしからん悪習である」と大衆に刷り込んだのと同じくらいの熱心さでもって、「飲酒運転は犯罪である」ということを繰り返しくりかえし人々に訴えてほしいものである。いやね、ほんとに知らない人がたくさんいるにちがいないんだってば。おれはもはや日本の公教育をまるで信じていないので、この日記を読んでいる人でブログを持っている人は、「飲酒運転は犯罪であり、人として恥ずべき行為です」というタイトルのエントリーをひとつは入れて、あまりにも基本的なことを学び損ねて運転免許が取れる歳まで育ってしまった気の毒な人々のために、この貴重な知識を広めていっていただきたい。
なにが迷惑ってね、おれはいままさに、今夜二杯めの芋焼酎お湯割りをアタリメ肴に飲みつつ、マイルドセブンエクストラライツをパカパカ吸いながらこれを書いているわけであって、酒や煙草がほんとうに好きで人生のささやかな楽しみとしている者にとっては、ごく一部の不届き者の行為は、同好の士として大迷惑なのである。この調子で社会からの風当たりが強くなり、やがては法規制もずっと厳しくなって、会社の帰りにコンビニで手軽に酒や煙草が買えなくなったらどうしてくれる! 酒も煙草もSFもやめて、百まで生きたバカがいる――って言うでしょ? 言わないか。
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▼Computers and Men (ある英会話教師のつぶやき)
http://eigomaster.seesaa.net/article/23114426.html
どひゃひゃひゃひゃひゃ、こ、これは面白い!
"Size does matter."か……。わ、悪かったな。
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B級グルメとしては、一度は食っておかねば教養を疑われると以前から思っていた「チョコビ」(バンダイ キャンディ事業部)を、今日初めて食ってみた。というか、いま焼酎お湯割りを飲みながら食っている。見かけはあんまりうまそうではないが、ちょっとチョコ風味の強いキャラメルコーン以外のなにものでもない。まあ、これはパッケージを楽しむもんでありますな。マンガに出てくるやつ、そのまんまである。おまけのシールは「ひまわり」だった。“企画もの”としては、悪い味ではないよ。
実物になってしまったフィクションの中の菓子を食っているわけだから、言ってみれば、『はじめ人間ギャートルズ』のあの“肉”を食っているようなものである。DVDボックス(初回限定生産)のおまけにあの肉がついているそうなんだが、肉目当てで買うにはあまりにも高すぎる。伊藤ハムとか丸大食品とかが、「チョコビ」のノリで「ギャートルズの肉」を出してくれないかなあ。
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小松左京の『やぶれかぶれ青春記』が古本か電子版でしか手に入らないいま、こういう本が出てくれるのは嬉しいのである。というのは、「筒井康隆って、小説も書くんですね」という世代がもう社会に出ている昨今、リメイクの映画『日本沈没』で初めて小松左京を知ったという若者だってたくさんいるだろうからで、そんな人には、ぜひこの偉大な作家の足跡を知ってほしい。
まあ、四十代以上のSFファンはどこかで読んだ話が(とくに前半は)多いはずだが、なあに、『やぶれかぶれ青春記』や『小松左京のSFセミナー』や『SFへの遺言』などを読んでいるおじさん・おばさんも、何度同じエピソードを読んだって減るもんじゃなし、御大のお言葉をいま一度骨身に刻むつもりで、熱いSF魂を呼び覚ましていただきたい。最後の四行には、年甲斐もなくじーんときちゃいましたよ。
いやしかし、巻末の小松左京年譜を改めて追うと、わが身の卑小さに情けなくなるよなあ。もしおれが小松左京だったとしたら、一昨年には『日本沈没』を刊行していなくてはならないのだ。四十二歳になった年にである。やれやれ。自分だけはいつまでも歳を取らないかのごとくに生きているが、こうして数字を見ると愕然とするよ。とほほほ。まあ、それだけ小松左京は偉大なのだ。こんな本をエラそうに評したりできないよ。ただただ、一SFファンとしてお薦めするのみだ。
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最近テレビのニュースを点けっぱなしにしていると、しょっちゅう「安部公房、安部公房」と言っているので、なんだか不気味だ。耳から入ってくるばかりでなく、ともすると“安倍官房長官”という活字までが“安部公房長官”に見えてしまうときがある。見えませんかそうですか。
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こんな時間に発作的にカップヌードルが食いたくなったので、衝動には逆らわずに、素直に食う。発作的に食いたくなったときには素直に食うのがダイエットの秘訣である。ふだんは腹六分目くらいしか食わないからな。
ここ三、四年、じわじわと無理せずに重さを増やしてきたダンベルは、現在一個十七・五キロになっている。これを両手で振りまわすと三十五キロであって、多少余力があるから、かなり小柄な女性であれば充分両腕の力だけで持ち上げられるくらいにはなってしまっている。誰も持ち上げさせてくれないけどな。そのわりに体脂肪率はじわじわとしか下がらず、まだ十八パーセントくらいはある。やっぱり、下腹の皮下脂肪が体脂肪率を引き上げてますな。上半身には無駄な脂はほとんどないといった感じなのだがなあ。現在、体重六十四キロだが、これを六十五キロ、体脂肪率十五パーセントくらいに持ってゆきたい。気長に、あんまりがんばらない程度にがんばろう。
ああ、それにしても、夜中に、寝る前に発作的に食うカップヌードルはうまい。至福の時である。日本文化バンザイ!
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さっき、どうぶつ宝石、じゃない、どうぶつイズム、じゃない、どうぶつアドベンチャーじゃない、そうそう、『どうぶつ奇想天外!』(TBS系)を漫然と流していたら、“毒のあるサル”の話をはじめたので、おれは「なに!?」とキリヤマ隊長のように顔を上げた。
ニューギニアにいる毒を持つ鳥、ピトフーイはけっこう有名だが、はて、サルのような高等哺乳類が体内に毒を持つとは、ほんとうだったら驚異である。鳥類のピトフーイも、昆虫や爬虫類のように体内で毒物を生成するわけではないと考えられている。虫などの食いものに含まれているものが、蓄積され分泌されるらしい。もし体内で毒を生成するようなサルがおったら、これは大発見にちがいない。
で、興味津々で観ていると、このサルは、タンザニア沖のザンジバル島に棲息するザンジバルアカコロブスなるサルで、現地では、このサルの肉を食べたイヌが死んでしまったと伝えられているそうなのだ。なんじゃ、伝聞か。で、しばらく観ていると、なるほどそういうこともあろうかという説明がなされた。つまり、この島には、栄養価が低く植物アルカロイドによる毒性の高い木の葉ばかりが生えており、サルが生きてゆくためには、それらをのべつまくなしに食っていなくてはならない。だものだから、体内に毒物が蓄積された状態のサルの死骸を食ったイヌが死ぬようなことも、あるだろうと考えられる――とのこと。まあ、そこまではよい。そんなこったろうと思った。
が、このサル、体内の毒物を吸着させて早く排泄するために、山火事などでできた炭を食う“文化”を持っているというのを聞いて、おれは勝手に97へぇを出した。誰が教えたわけでもない。驚異だ。動物学者の千石正一氏が推測していたように、たまたま炭を食って気持ちがよくなった(まあ、たぶん、いつもより身体の調子がよくなったのだろう)やつがいて、その行動が“芋洗い”のように伝播していったということなのだろう。おれは『ジュラシック・パーク』の数学者・マルコムのように、“Life finds a way.”とつぶやいた。まったく生きものというのは、えらいもんである。
結局、最初に期待したような“毒ザル”ではなかったわけだが、改めて疑問に思うのは、そもそもどうして哺乳類や鳥類は、体内で毒を生成するという方法を捨てて進化したのだろう? もしかしたら、進化の途上で、ヘビのように体内で毒を生成し、それを武器に用いる哺乳類や鳥類がおったのかもしれんが、仮にそういうものがいたとしても、ことごとく滅びてしまっているわけだ。なにか決定的な理由があるのにちがいない。哺乳類や鳥類にとって、毒を持つということには、種の存続にマイナスに働くなにかがあるのだろう。
もしかすると、あまり知能が発達していない段階の生物にとって、毒を持つということは、“仲間の死骸を食べて生き延びる”というオプションを閉ざしてしまうからなのかもしれない。人間くらいに知能が発達してしまえば、仮にいま人間が突然変異で毒を持つようになり、仲間を食わなくてはならないような食糧危機に見舞われたとしても、免許を持った調理師とかが毒のある部位を取り除けて料理することができるだろうが、まだ知能の低い段階では、うかつに仲間を食ったらお陀仏である。結局、毒など持っていないほうが、社会を作る種としては有利なのかもしれない。考えてみれば、毒を持っている生きものは、社会を持たないものがほとんどだ。例外としては、ハチやアリなどがそうだろうが、彼らは非常に高度な社会を持っているがゆえに、毒をコントロールすることができているのだろう。
まあ、大阪の街なかを歩いていると、どう見ても毒があるとしか思えない配色のおばちゃんがしばしば歩いているけれども、あれは実際には毒はないと思う。たぶん。とはいえ、念のため、噛みつかれたりしないように遠巻きにやりすごすことにしている。
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最近、“テレビを観ながら飯を食う”のと同じ感覚で、“GyaO を観ながら飯を食う”ことが多くなってきた。ちょっと前までは、ネットで動画を観るといえば、“これを観る”といった確固たる意志を持って、“内容の濃いものをいちいち観る”といった感じが強かったのだが、GyaO のコンテンツの充実や my GyaO というパーソナライズ機能の出現によって、“どうでもよいものを漫然と流しておく”という視聴形態が自然なものになってきたのだ。たぶん、おれにかぎったことではないだろうと思う。テレビは確実に客を取られているぞ。
“どうでもよいものを漫然と流す”にしても、それは“事前に登録したある程度興味のあるもの”なわけであって、つまりおれにとっては GyaO の使いかたは、次第に iTunes の使いかたに似てきたということになる(おれの使っている携帯プレーヤーはアイリバーだけどね)。もしいま、GyaO がハードウェアメーカーと手を組んで、“好きな番組ばかりやっているラジオ”としての iPod Shuffle が実現しているのと同じような、垂直統合戦略に乗り出したとしたら、かなりいい線いくのではないかという気さえしている。
パソコンの前に襟を正して鎮座し、「さあ、なにかを学んでやろう」「さあ、じっくりとこの“作品”を鑑賞しよう」と構えて視聴しているうちはなにやら鬱陶しい感じもあったのだが、“そこそこどうでもいいもの”を連続して流せるようになってからは、ますますテレビに近づいてきた感があるのだな。メディアというものは、そういう段階になってはじめて、一応の成熟を迎えたということになるのではなかろうか? スタージョンの法則は、裏返せば、98パーセントのクズが存在するからこそ、2パーセントの値打ちが出るのだということなのだ。裾野が広いということが、メディアにとっては存外に重要なことなのだろうと思う今日このごろである。
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「アサヒ本生クリアブラック」の二本パックに付いてた朝青龍のフィギュア。また、おまけに釣られて二本買ってしまった。けっこううまいから、よしとするけども。いやしかし、このフィギュアは出来がいい。見れば見るほど似てる。実物の朝青龍の顔と身体が、忠実にこの比率だったらめちゃめちゃ不気味なのにな。まあ、朝青龍でなくたって不気味だが……。
それはともかく、アサヒのCMに出ている宝積有香って人、最近ちょっと気になりはじめている(遅い)。よく見ると、葉月里緒奈に似ているときがあるではないか。というか、つのだじろうが葉月里緒奈を描いたらこういう感じになるにちがいない。
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“親王切開”じゃん、などと不謹慎なことを、今日、日本人の五人に三人くらいが思ったにちがいないのだが、わざわざ書くやつは千人にひとりくらいだと思う。
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“フットサル”という言葉を見ると、フッサールとサルトルが絡み合っている図を反射的に想像してしまう自分がちょっと厭だ。どっちがウケだろう?
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2003年8月2日の日記で、こんなことを書いた――
おれが渡辺淳一が少々特殊だと思うのは、医者としてのものの見かた、人生観、女性観等々を、純文学とさほど変わらぬトーンでエンタテインメントに持ち込んでいる点である。むかしは、科学者が小説を書くといえば、SF以外では、科学的ディテールを小説に持ち込むという印象があったと思う。医者であれば、医学的ディテールや医療現場の実情などが出てくると「さすがは医者」と喜ばれただろう。なぜか、科学者には、小説の中核ではなく、ディテールに専門知識を発揮することが暗黙裡に期待されていたような気がするのである。つまり、科学者としてのものの見かたは、小説の中核とも人間の描写ともあまり関係がなく、細部の説得力を増すためにのみ発揮されるはずであるという、不可思議な了解があったように感じられるのだ。科学や技術の描写そのものが、人間の営為の描写として通用する書きかたもあるはずなのにである。渡辺淳一は、医者である作家が専門知識をディテールにこちょこちょと使ってみせるというのではなく、作家である医者が、医者としてのものの見かたそのものを小説の中核に据えて、純文学としてもエンタテインメントとしても表出し得ることを意識的に示した作家であろうと思う。
石黒達昌はまさに、「科学や技術の描写そのものが、人間の営為の描写として通用する書きかた」をする作家である。本書のアオリには“理系小説”という表現が用いられているが、おれはあんまりこの言葉が好きではない。なぜかというと、これも上述の日記に書いたとおりだ――
なぜ科学者の中で医者だけが、文学などに手を染めても違和感のない存在として古くから認知されていたのか? おそらく、むかしは、そこいらへんのふつうの人々にとって、ふつうの人生に関わる科学者、ふつうの生活に関わる科学者は、医者だけだと思えたからであろう。ところが、衣食住はもとより、日常生活のあらゆる側面に科学技術が有機的に組み込まれた社会になってくると(一九八○年代以降、この現象は急激に加速され進行した)、もはや科学技術を描くことなしに“いま・ここ”の人間を描くことが不可能になってくる。いや、可能ではあるが、科学技術をわざわざ回避して現代の人間を描いたとしたら、むかしとは逆に、まるで異世界ファンタジーのような薫りがついてしまうことだろう。ファンタジーを書くつもりで効果を狙ってそうしているのなら問題ないが、狙わない効果が出てしまったら、それは喜劇的ですらある。
つまり、石黒達昌の“理系小説”は、現代の小説としてごく自然なものだとしか思われないのである。むかしの小説が“文系”偏重であったにすぎない。グレッグ・イーガンやテッド・チャンの作風が如実に示しているように、科学や技術の先端的な領域は、文学こそが取り上げるべき領域とすっかり重なってしまっている。
こうした“文理一如”であるが“あえてSFのフォーミュラで書かない”領域に、“文系”側から飛び込んだのが日野啓三や池澤夏樹であったとすれば、“理系”側から飛び込んだのが、増田みず子や別唐晶司、そして石黒達昌なのだろうとおれは思っている。そのちょうど境目に真上からいきなり落ちてきたのが川端裕人なのかもしれない(?)。石黒達昌の淡々と乾いた文体は、おれにはとくに増田みず子に似ているように感じられる。増田みず子にハードSFを振りかけてフリーズドライにすると石黒達昌ができあがるといった感じだ(好き勝手言うとるな)。
それはともかく、上述の日記で川端裕人について書いたように、おれには「SF作家になってほしくはなく、SFのためにはぜひそばにいてほしい作家」が何人かいて、石黒達昌はまちがいなくそのひとりなのである。じつは、本書が《ハヤカワSFシリーズ Jコレクション》から出たことに、おれはちょっと複雑な思いを抱いている。好きな作家がJコレから出たということは掛け値なしに嬉しいのだが、二十年、三十年前ならいざしらず、いまなら石黒達昌の作品は、あえてSFのフィールドに引っぱり込まなくても、十二分に通常小説として通るはずだ。というか、こういうものが現代のふつうの小説として通らないようでは困る。小説とは、それくらい自由なものであってほしい。もはや、“スリップストリーム”という言葉すら使いたくない。じゃあ、なんと呼びたいかというと、おれひとりが以前から勝手に言っているように“一般主流文学”と呼びたいのである。
旅館の屋根に転がったハチの死骸ひとつにあーだこーだと御託を並べるようなもの“だけ”が小説だと思っている人は、ウランを含む土壌に生え、人間の血を養分として妖しく光る植物に魅せられた男の話に、小説の大いなる自由を味わってほしい。
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▼NHK、ドラマを修正して放送 殺人シーンがリアル (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/update/0831/009.html
NHKは30日に再放送予定だった連続ドラマ「鏡は眠らない」(全5話)の第3話に、少女によるリアルな殺人シーンがあったため、同日の放送を中止した。映像を修正して31日に放送した。場面のカットやセリフの変更はない。
NHK広報局によると、ドラマは97年に制作、放送されたが、最近の少年による殺人事件を連想させ、「今の感覚で見るとリアルすぎる」と判断した。第4話の殺人シーンも映像を修正する。
このニュース、こないだから気になってたのよな。おれはこのドラマ観てないけどさ。
「今の感覚で見るとリアルすぎる」ってのがすごい理由だなあ。当時は“こんなこと(どんなことかおれは知らんが)が現実に起こるはずはないと誰だって思うだろうから問題はないと誰もが同意するような荒唐無稽な殺人シーン”だったわけだろう? この九年のあいだに、それほど認識が変わってしまったということなんだなあ。たしかにそうかもなあ。おれ自身、そこいらへんの道端に人間の生首が転がっていたとしても、「そうしょっちゅうあることではなかろうが、まあ、たまにはそういうこともあろう」くらいの感覚になっちゃってるもんなあ。
そのうち、牧野修とか小林泰三とかの旧作が、「今の感覚で読むとリアルすぎる」などと言われるようになったりするのかもなあ。
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“惑星寄りの物体X”と呼んではどうだろう? そっちのほうが違和感あるって? おれにはないんだよっ。
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