「ありがとう」と「ありえない」
「ありがとう」という言葉がある。これはまあ、誰もがご存じのように、「あなたが私のような者にこのようによくしてくださるなどということは、まったくもってふつうでは考えられないほどに発生する蓋然性が低いことである。また、そのあなたのような人が私に関わってくださるという巡り合わせそのものもきわめて稀なことであり、いまここで私を巡るすべてのことどもが、現実に発生するとはとても考え難い、“在り難い”ことである。私はなんと運のよいしあわせ者であろうか」といった意味だ。これほど奥ゆかしい感謝のしかたをする言語がほかにあるかどうかはよく知らないが、それにしてもこれは、驚くべき宇宙的な感謝のしかただと思う。「ありがとう」という言葉を聞くたび、量子論的な多世界解釈といったものがちらとおれの脳裡をかすめる(そんなオーバーな)。
それはともかく、今日風呂の中でこの「ありがとう」という言葉に思いを馳せていたところ、「ありえない」「ありえねー」という現代の若者言葉と構造的にまったく同じであることに気がついた。「えーっ、ケータイ、トイレに落としたの? ありえねー!」などというふうに使う、あの「ありえない」である。
「ありがとう」も「ありえない」も、蓋然性の低い事象が自分を巡って発生したことに伴う感情を表現しているわけだ。「ありがとう」のほうは、発生確率の低い事象が分不相応にも自分の身に起こったことに伴う感謝の念を表出したものだが、「ありえない」のほうは、発生確率の低い事象が不当にもわが身を巡って起こったことに対する驚愕あるいは不満を表出していると考えられよう。つまり、端的に言うと、「ありがとう」には、基本的に私などという人間は苦しみ軽んじられ蔑まれて生きていて当然という認識があり、「ありえない」には、私という人間はそれなりに尊重され、世界は基本的に私の思惑どおりに回って当然という認識があるわけである。私という人間を巡って発生する蓋然性の低い事象を、基本的にどのように感じるかで、「ありがとう」になったり「ありえない」になったりするのだ。
言葉を発する背景の構造が同じなのだから、そのうち、未来の日本語では、もしかすると両者が渾然一体となり、「ありえない」が感謝の言葉とならないともかぎらない。未来の日本人は、川で溺れたわが子を助けてくれた通りすがりの人に対して、「ああ、あなたはうちの子の命の恩人です。ほんとうにどうもありえねー」などとありがた涙にかきくれているかもしれない。なんか、おれは厭だけど。「ありえのう」などという感謝の言葉さえ生まれているかもしれない。
……などとくだらないことを考えていると、ふと、うちで使っている洗濯用の洗剤が「アリエール」だということを思い出した。これなんかは、汚れの落ちかたに驚きがないようなネーミングではなかろうか。「まあ、大方の予想どおりに汚れが落ちたな」みたいな感じである。競合商品のネーミングをするなら、「アリエネー」というのはどうだろう? 「とても落ちないと思われるような汚れが落ちる!」といったイメージで、たいへん競争力があると思うのだがどうか。
あっ、そうか――。いま、SFの新しい定義を思いついた。SFというのは、「ありえない」ことを書いて「ありがとう」という認識や感情を励起する文学なのだ。どうですかね、この新定義?
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コメント
わたしはかつて「さようなら」と「じゃあね」とがまったく同じ構造であるのに気付いて、日本人の心情に深く思いを致したことがありました。
投稿: ROCKY 江藤 | 2006年8月 7日 (月) 16時02分
むしろ「ありがとう」ではじまって「ありえない」で終わるのがSFでは。
投稿: 林 譲治 | 2006年8月 7日 (月) 17時28分
>ROCKY 江藤さん
そうですよねえ。で、「さようなら」の「さよう」とはどのようなのかと考えてみると、やっぱりこれは「森羅万象がわれわれにいま別れを強いるように巡っているのならば」とでもいった意味でしょう。宇宙的というか、仏教的というか、とんでもない言葉ですね。「再会を期して」みたいな意地汚い(笑)手前の希望のみを述べる言語とは、深みがちがいます(をい)。
>林譲治さん
プロット的にはそういうことになるんですが、ありえないお話に覚える驚異が、結局のところ、われわれが“いま・ここ”にあることへの驚異へと繋がってゆくという見かたをすれば、やっぱり「ありえない」から「ありがとう」がSFなんじゃないかと、ワタシ的には思うわけです。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年8月 8日 (火) 00時31分
「ありがとう」で水が美しく結晶するなんて「ありえない」。SFでも科学でもない。ファンタジーなんだそうですが。
投稿: ROCKY 江藤 | 2006年8月 8日 (火) 12時17分
>ROCKY 江藤さん
うまいっ!
しかしまあ、水さんを擬人化したバカげた話を小学生に教えているくらいだったら、英語なんかよりも、まず理科を小学校で必修化してほしいもんです。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年8月 8日 (火) 23時04分
http://www.occn.zaq.ne.jp/nohohon/PoemOnline/OLD4/po222.htm
ありえない の構造への考察など。
投稿: とおりすがり | 2006年8月13日 (日) 18時34分