『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)
小学校での英語必修化に、英語教育のプロの立場から警鐘を鳴らす書。この駄ブログでも、小学校英語必修化への奇妙な動きを「英語を教えナイト?」(2006年3月28日)、「英語を教えナイト? 2」(2006年4月8日)で茶化してきたが、本書を読んでたいへん意を強くした。「そのとおり!」「ごもっとも!」「よくぞ言うてくれはりました!」と、縦にブンブン振りすぎた首がちぎれそうである。
まず著者は、言語を身につけるのは早ければ早いほどよいという根拠薄弱な俗説に疑義を呈す。私学では小学校から英語を教えているところなど珍しくもなんともないが、小学校から英語を教えられている子が飛び抜けた英語力を身につけているかというとそんなことはなく、中学校からその私学に入ってきた子に容易に抜かされてしまう子が結構いるという。それはまあ、教育現場での噂レベルの話だと言われればそうだと著者も認めているが、こうして“ツカミ”をぶちかましておいて、鳥飼氏は徐々に説得力のあるデータを次々と繰り出してゆく。
おれに言わせれば、「言語を身につけるのは早ければ早いほどよい」と思い込まされているくらいであれば、まだ症状が軽いと思う。その俗説は容易に論理的アクロバットを演じて、「早くからやれば言語は簡単に身につく」というものになってしまっていることが少なくない。だから外国語も、できれば生まれたときからやるのがよい、と。ここで健全な論理的思考力をお持ちの方であれば、「だったらそれは、その子にとってちっとも外国語ではないではないか。というか、その子には母国語がないということになってしまうではないか」とお気づきになるだろう。そのとおりである。わが子にひとつやふたつ、できれば三つや四つの“外国語”を身につけさせたいと思い、“早くからやれば身につく”だろうという幻想に囚われてそれを極端に実践したとすれば、“外国語”を身につけさせたいという最初の前提に矛盾してしまうのだ。こんなことは外国語教育の専門家でなくとも、まともな論理的思考ができれば容易に導き出される結論である。ところが、肝心要の“なぜわが子に外国語を身につけさせたいのか”という部分を深く考えない親は、“英語ができる人=国際人”という軽重浮薄な等式を頭の中で勝手に作り上げてしまい、なにやらとにかく早くからやらせさえすれば、凡人を凌ぐ特殊な能力をわが子が身につけられるにちがいないと安易に考えてしまうらしい。愚かなことである。早くからやれば言語が簡単に身につくのであれば、二十年、三十年と日常生活で日本語漬けになってきたくせに、日本語で満足にまとまった話もできず、読み書きもむちゃくちゃ、てにをはさえ怪しいというネイティブ日本人がこんなにたくさんいるはずがなかろう。要するに、モチベーションの問題なのだ。
鳥飼氏はさらに、みずからのコンプレックスを刺激された親の幻想と、人材育成に投資する余裕がなくなり“即戦力”とやらを求めるようになった企業との奇妙な連携が、教育現場を置いてけぼりにした根拠薄弱な早期英語教育推進に拍車をかけている実態を淡々と指摘してゆく。「早ければ早いほどよいにちがいない」という幻想のみを根拠にした、ナンチャッテ国際化の雰囲気と親のコンプレックスが先行する英語早期教育への過剰な期待は、子供に余計な負担を強い、劣等感すら植えつけるものだと、英語教育と同時通訳の場に精通した鳥飼氏は鋭く指摘する。
また、現実的問題として、仮に小学校で英語を必修化したところで、全国二万三千校の公立小学校に、小学校専属のALT(外国語指導助手)は、二〇〇五年七月現在で百二十一人しかいないのだという。民間に人材を求めたとて、本人が英語ができることと、小学生に教えられるプロであるということとはまったくちがう。しかも、外務省が募集・選考し、文部科学省が研修等を行い、総務省が全体の招致計画や財務面での面倒を見ている“公式なALT”以外に、地方自治体の教育委員会などが民間の派遣業者に委託して派遣してもらっている、資格を問われないALTが多くいるのが実態なのだそうだ。早い話が、あなたが“ただ日本人であり日本語をしゃべる”というだけで、外国の小学生に日本語を教えさせられているようなものなのである。もちろん、教育の技術というのは、そんな甘いもんではない。相手がビジネスマンや大学生ならともかく、心理的にも未熟な、発達段階の途上にある子供を教えるのには、“英語をしゃべるだけのふつうの人”では不適格なのはあきらかだろう。現状でもそんなお寒いありさまなのである。必修化したとて、小学生に英語を教えられるちゃんとした人材など、逆さに振ってもどこからも出てこないのだ。
大爆笑しながらも背筋が寒くなったのは、本書で紹介されているバトラー後藤裕子氏による報告だ。現在、小学校で“英語活動”として行われているものの実態は、こんなとんでもないものなのかと衝撃を受けた。あんまりすさまじくも嘆かわしいので、引用しよう――
東京都内の、ある小学五年生の授業。担任の先生が、まずは英語の歌のテープを流します。それが終わると、次に「ゲームを始めよう」と言って、各班に野菜や果物の絵が描かれたカードを引いてもらいます。
「みんなの前で言ってみよう」という先生の掛け声に応じて、リンゴのカードを引いた男の子が立ち上がって、こう言ったそうです。
「アイ・アム・アップル!」
先生もニコニコして、繰り返します。
「アイ・アム・アップル!」
それぞれの班の子どもたちも、それに続きます。
「アイ・アム・ピーチ!」
「アイ・アム・バナナ!」
「アイ・アム・グレープ!」
……
あとでバトラー後藤さんにこの授業風景のビデオを見せられたアメリカ人英語教師たちは、「これは英語ではない」と、目を白黒させたそうです。
このアメリカ人教師たちが全員「目を白黒」できたかどうかはさておき、おれはこんなことをさせられている子供はもちろん、担任の先生を気の毒に思った。英語教師の資格を持っているわけでもないのに、小学校の先生であるというだけで、専門外のことをやらされているわけである。しかも、その知識は英語教師としてはたいへん心許ない。で、子供は子供で、「自分は小学校で英語を習った」という誤った思い込みを抱えたまま、中学校へと進学してゆくわけだ。すべての公立小学校で、これほどすさまじく無意味なことが行われているとは思わないが(そうだったりして……)、こんな学校があることは事実なのである。いやあ、おれは独身で子供もいないが、もし子供がいたら、こんな学校へやりたくないね。こんなバカなことで子供の貴重な時間を奪っているのなら、代わりに尋常小学唱歌でも教えるがいい。
最終章の「日本の英語教育はどうあるべきか」では、世間で幅を利かせている「学校英語は文法ばかり教えるから役に立たない」という固定観念を覆す主張が、説得力あるデータと共に展開される。
そう、たしかに奇妙なのだ。「学校英語は文法ばかり教えるから役に立たない」とさんざん言われていたのは、おれたちが中学・高校生のころ(まさに、若き日の鳥飼玖美子先生を「カッコいいなあ」と思いながら、おれが短波ラジオを聴いていた二十数年前)から……いや、それ以前からずっとである。一九八九年の学習指導要領の改訂で、それ以降の子供たちは、おれたちが受けていたよりもずっと「聴く」「話す」に重点を置いた英語教育を学校で受けているはずなのに、「学校英語は文法ばかり教えるから役に立たない」という固定観念は、いまも子供たち自身や親を支配しているらしいのだ。不思議なことである。
日本は TOEFL の成績で中国や韓国に負けているが、これとて、“悪しき文法中心教育”のせいではない(そもそも、すでにそんな教育はしていない)ことが、本書では明白にデータで示される。早い話が、日本は「聴解」「文法」「語彙」「読解」のいずれに於いても、中国や韓国に負けている。とくに「読解」で大きく差をつけられている。また、ついでに言えば、高校生の勉強時間でも負けている。おまけに、中国・韓国では若い世代が TOEFL の平均点を引き上げているのに対し、日本では若い世代が平均点を引き下げているのだ。オーラル・コミュニケーション中心の学習指導要領に則った教育を受け、かつての“悪しき文法中心教育”とやらの影響を脱しているはずの若い世代が、いったいどうしたことであろうか? こうしたデータに即した実態を見ずに、思い込みと雰囲気だけに流されてはいけないと鳥飼氏は警告する。なにかと政治的思惑がおありの方々は、そういう世論をこそ利用するのだ。
わが子を、母国語も満足に操れないうえに似非英語を刷り込まれただけの根無し草にしたくなければ、小学校での英語必修化は国際化社会の要請などという世迷い言に、軽々に惑わされてはならない。独身のおれが言うのもなんだが、世の親御さん方には、ぜひお読みいただきたい、英語のプロからの力強いメッセージである。
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コメント
国際人云々の主張でいつも思うんですよね。英語が流暢に話せるとしても、それと海外(じつは海外に限らないのだが)の人に自分の意見を主張するとか、コミュニケーションがはかられるというのは別問題じゃないかと。
自分の意見が無ければ主張もできないし、コミュニケーションのスキルが無ければ意志の疎通ははかることはできない。教育が優先すべきはこっちだろうと。
投稿: 林 譲治 | 2006年7月31日 (月) 09時56分
お久しぶりです。
(といっても数回メールしたことがあるだけなので、ご記憶にないかも)
ずっと英語、苦手でした。中高では赤点で「向かない」と思っていたのです。
しかし、38歳になってから、職場で英語が必要になり、そりゃあ必死でお勉強です。
冬樹さんの以前の日記で、「辞書など引かずにとにかく読め」との意味の文章があり、なるほどと多読に挑戦。
いまでは、通勤の愛読書は、Bujold の未訳作品など英語中心。
翻訳をまたずに済むのはいいものですし、小さいころから知っている「あの名作」を原文で読める幸せ。
いくつになっても強い動機さえあればなんとかなるもので、逆に早ければいいってものでもないですね。
うちは4人の子持ちですが、早期教育にはまったく関心がありません。しかし、「ナルニア」や「指輪物語」の原書がそこここに転がっているので、興味をもってくれれば勝手にやるだろうと考えています。
というわけで、冬樹さんの一言がきっかけで英語がマスター(自分にとって必要な程度に)出来ましたので、感謝しております。
ありがとうございました。
投稿: 修理屋ア | 2006年7月31日 (月) 12時44分
>林譲治さん
本書にも指摘があるのですが、ほかの授業のときには受動的におとなしく聴いていることが暗に求められるのに、英語の時間にかぎって、突如、エーベー人のようにがんがん自己主張しなさいと言われても、子供はとまどいますよねえ。日本語でちゃんと自分の意見を述べるというところから訓練すべきです。
>修理屋アさん
これはこれはご無沙汰しております。たしかに、間歇日記では何度も英語について好き勝手な論をぶっていますが、そんなものでもなんらかのお役に立てたとは、まことにもって嬉しいことです。
ひょっとして、おっしゃっている日記はこれ( http://web.kyoto-inet.or.jp/people/ray_fyk/diary/dr9704_3.htm#970425 )でしょうか? 言葉ネタはわりと多いのでちがうかもしれませんが。もしそうだとすると、もう九年も前のことになりますね。継続は力とはよく言ったものです。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年7月31日 (月) 23時44分
まさにこれです。
私が読んだのは4年ほど前です。
それから Oxford Bookworms Library の400語レベルを手始めに、好きな本の原書ばかりを買って読みふけりました。
「好きな本」なので、感覚としては遊びです。
ときには1ページくらい何が起きているのか理解できないこともあります。でも読み進めると何とかなるもので、「ああ、あそこのページで言ってたのはこのことだな」と気が付いてから読み返すとすらすら理解できたりして。
英語で読書。楽しいです。
投稿: 修理屋ア | 2006年8月 1日 (火) 12時49分
▼自著を語る(鳥飼玖美子)「欠陥だらけの小学校英語に唖然」
http://www.bunshun.co.jp/jicho/shougakueigo/shougakueigo.htm
投稿: 冬樹蛉 | 2006年8月 2日 (水) 23時31分
>「アイ・アム・アップル!」
すげ……これなら、荒井注の「ジス・イズ・ア・ペン!」の方が、まだ英語になってる。
せめて「アイ・アム・アンナップル」と言ってくれ……というような問題ではないとは思うが。
そういえば、昔の話ではあるけど、アメリカで「アイ・アム・チェリー!」と主張してきた、自民党元幹事長がいたっけなぁ……。
投稿: クレイン | 2006年8月 5日 (土) 09時54分
>クレインさん
さすがに荒井注への言及はありませんが、本書にも「ジス・イズ・ア・ペン」のほうがまだましだという話がありました(^_^;)。
アメリカ大統領に「フー・アー・ユー?」と尋ねたと伝えられる某元首相の話も。以前、ポッドキャストの落語を聴いてたら、あれを枕に使っている噺家がいて、フクザツな気持ちになりましたね。あの元首相は、「イット」と「フー・アー・ユー?」のみを以て歴史に名を残すのではあるまいかと……。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年8月 5日 (土) 20時05分
>修理屋アさん
>「好きな本」なので、感覚としては遊びです。
すばらしい。私もまさにそういう感じでした。そういう感じを子供たちに味わわせる教育であってほしいと思いますね。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年8月 6日 (日) 04時15分
>アメリカ大統領に「フー・アー・ユー?」と尋ねたと伝えられる某元首相の話
こんな事実はまったく存在せず、単なる作り話の誹謗中傷だそうですけど、妙に定着してますね。いかにも言いそうだと思われてるんだろうなぁ(笑)
投稿: クレイン | 2006年8月 9日 (水) 23時43分
>クレインさん
本書にも、これは作り話らしいがいかにもありそうと書かれています。それにしてもよくできますよねえ。
もっとも、かの某元首相に英単語を三つも組み合わせたセンテンスが口にできるはずがないという考えかたもありましょう。それはそれで、これまたすごく説得力がありますが……。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年8月10日 (木) 02時37分
考えてみると「How are you?」と間違えて「Who are you?」と言ってしまうという時点で、ある程度英語ができる(笑)人の発想かもしれないと思います。
どこかの田舎の婆さまが、初めての海外旅行でハワイに行った時、「How are you?」を「ハワイアン!」と覚えてしまい、会う人ごとに「ハワイアン! ハワイアン!」と連発していた(そして、それで何の支障も生じなかった(笑))という話を聞いたことがありますが、そちらの方が、前首相にはふさわしいかもしれません。(しかし、もしも前首相から、いきなり「ハワイアン!」とやられていたら、前大統領は、いったいどう対応するだろう(笑))
投稿: クレイン | 2006年8月10日 (木) 11時45分
>クレインさん
>もしも前首相から、いきなり「ハワイアン!」とやられていたら、前大統領は、いったいどう対応するだろう(笑)
そりゃやっぱり、「その言葉遣いは不適切です」とたしなめるでしょう。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年8月10日 (木) 22時12分