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2006年7月25日 (火)

『ミッションスクール』(田中哲弥/ハヤカワ文庫JA)

 「下痢のため一刻も早く排便したいのですなどと十七歳の女子高生が人前で言うはずがないのだ」などという書き出しの“ライトノベル”があろうはずがないのだ。暗い、支持のない世界で生まれた三つの短篇……。だが、その醜い字面の中には、SFの血が流れていたのだ。電撃文庫になれなかった三つの短篇は、〈SFマガジン〉に掲載された一篇と書き下ろし一篇を加えて、妖怪文庫……じゃない、ハヤカワ文庫として世に出たのであった。

 というわけで、「『やみなべの陰謀』から7年、今世紀初の新作、奇跡の刊行!」とまで腰巻に書かれて作者は喜んでいる場合なのかという疑問もあろうが、読者としては喜ばしいことである。

 収録作は、スパイもの、ホラー、ファンタジー、アメコミ、純愛ロマンの定型“だけ”を守りながら、ほかはなにひとつ守らず、失うものはなにもないとばかりにハチャハチャなストーリーを展開する。そりゃあ、〈電撃hp〉誌で嫌われるはずである。そもそも定型というものを十全に学習していないであろう読者層へ向けて、定型の素晴らしさを礼賛しアホらしさを茶化すのを同時に行うという高度なコメディを繰り出すなどというのは、アホのすることである。損得勘定ができないアホである。おれは個人的にはそういうアホが大好きであるが、TPOというものがありましょうが。

 先ほど“ハチャハチャ”と書いたが、本書は、おれたちの世代がかつて親しんだハチャハチャの代名詞、横田順彌のそれとは少し趣を異にする。田中哲弥はおれと同学年だから(ついでに大学も同じ、学部まで同じなのだが、こんなケッタイな人物と学生時代に知り合わなくてよかった)、筒井康隆かんべむさし“ドタバタ”SFと認識し、横田順彌を“ハチャハチャ”SFと認識しているはずである。で、本書の田中哲弥自身はというと、ドタバタとハチャハチャの中間より少しハチャハチャ寄りくらいのところを、安定的に飛行している。むちゃくちゃをやっているようで、ぴたりとその空域をキープして飛んでいるのである。緻密とすら呼んでもよい。いささか職人的すぎるくらいで、もっと不安定であってもよいのにと思うほどだ。本書は、ハヤカワ文庫という場を得て、晴れて正しい読者のもとに届けられたのである。どういう読者かというと、「あ、これはドタハチャのハチャ寄りだな」と本能的にわかってしまうような読者である。

 本書では、田中哲弥の奇妙な話法が随所に炸裂する。

 「トイレですよ、先生」よく見ていたな、と雄作は少し驚きながらも早苗に笑みを向けた。

 この「よく見ていたな」は、ブンガク的に言うと、“描出話法”(represented speech)というやつである。登場人物の心内発声を地の文として表現する話法だ。いわゆる“意識の流れ”風の文体を好む作家は、あたりまえのように多用する。あんまり珍しくない。だが、これはどうだろう――

 「マングースに似てるなあと思ったらここにいたんだ」坂崎が言った。途中がほとんど跳んでいる。いやなことは本当に綺麗に忘れるタイプらしい。

 この作品は、一人称語りではない。形式的には、いわゆる“神の視点”で書かれており、登場人物はすべて三人称扱いだ。じゃあ、ここで「途中がほとんど跳んでいる。いやなことは本当に綺麗に忘れるタイプらしい」と語っているのは、いったい誰なのだ? この小説の中のことはことごとく知っているはずの神が「らしい」と推量しているのである。これはもしかしたら、描出話法なのか? いや、坂崎という人物を客観的に評価している“誰か”の心内発声だ。誰だ、それは? ほかの登場人物のようであり、“神の視点”の語り手のようでもある。曖昧なのだが、すんなり読めてしまう。じゃあ、これは――

「いえ、感染は一度きりです。一度噛めばその後狐はただのキタキツネに戻ります」
「え、なんで?」
「そういうものだからです」理由になっとらん。「そうでなければたとえばピーター・バーカーを噛んだ蜘蛛が他の人も噛んだ場合スパイダーマンがたくさん出現してしまいます」
「ああなるほどなあ」納得するか普通。

 「理由になっとらん」と思っているのは誰なのだ? 「納得するか普通」とツッコんでいるのは、いったい全体、誰なのだ?

 そう、誰かがツッコんでいるのである。それは地の文を進行している“語り手”のようであって、ビミョーに異なる誰かなのだ。“神の視点の語り手”の肩のところに、もうひとり語り手に憑依して茶々を入れているやつがいる。それは作者であって、また、読者でもあるという不思議な視点だ。作者が読者の視点から茶々を入れている。と同時に、そのことによって読者にも作者の視点を持たせてしまう、なんとも奇妙な語りである。『ちびまる子ちゃん』のキートン山田みたいなものだが、あれはマンガだからなんの疑問も抱かないのであって、これを小説でさらりとやってのけるバランス感覚は超絶技巧だと思う。ちょっと匙加減をまちがえると、視点がとっちらかってたいへん読みにくいものになり、最悪、小説が崩壊してしまう。小説教室やなんかで小説を書きはじめた人が、下手に田中哲弥の真似をした作品を先生に提出しようものなら、「ここはいけませんね。視点はどこにあるのですか?」などと直されてしまうかもしれない。ちなみに、慣れない小説を書きはじめたころのつかこうへいは、唐突に視点が移動してしまう文章を見咎めた編集者に「視点はどこにあるんですか!?」と指摘されたとき、「観客にあんだよ」と答えたとか。そういう意味で、田中哲弥が本書で駆使するような文体は、さりげなく演劇的である。読者は、読者ではなく、ときに観客になって読むべきなのだ。

 『マカロニほうれん荘』とか読んで怒るような人にはお薦めできない。ステロタイプをこよなく愛し、ステロタイプの破壊もこよなく愛する人は、座右の書としていただきたい。



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コメント

田中哲弥氏の「もう一人の語り手」は翻訳にも登場しますね。
「悪魔の国からこっちに丁稚」の冒頭が有名です。

投稿: 小林泰三 | 2006年7月25日 (火) 21時32分

>小林泰三さん

 あれは、田中哲弥という作家を知らない読者であれば、それこそいきなりなんのことやらさっぱりわからないと思います。掟破りですね。まあ、翻訳ソフトを使うと、誰でも、どんな小説でも、ああいうふうに思うとは思いますが。

投稿: 冬樹蛉 | 2006年7月25日 (火) 22時33分

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