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2006年7月の26件の記事

2006年7月31日 (月)

『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)

 小学校での英語必修化に、英語教育のプロの立場から警鐘を鳴らす書。この駄ブログでも、小学校英語必修化への奇妙な動きを「英語を教えナイト?」(2006年3月28日)「英語を教えナイト? 2」(2006年4月8日)で茶化してきたが、本書を読んでたいへん意を強くした。「そのとおり!」「ごもっとも!」「よくぞ言うてくれはりました!」と、縦にブンブン振りすぎた首がちぎれそうである。

 まず著者は、言語を身につけるのは早ければ早いほどよいという根拠薄弱な俗説に疑義を呈す。私学では小学校から英語を教えているところなど珍しくもなんともないが、小学校から英語を教えられている子が飛び抜けた英語力を身につけているかというとそんなことはなく、中学校からその私学に入ってきた子に容易に抜かされてしまう子が結構いるという。それはまあ、教育現場での噂レベルの話だと言われればそうだと著者も認めているが、こうして“ツカミ”をぶちかましておいて、鳥飼氏は徐々に説得力のあるデータを次々と繰り出してゆく。

 おれに言わせれば、「言語を身につけるのは早ければ早いほどよい」と思い込まされているくらいであれば、まだ症状が軽いと思う。その俗説は容易に論理的アクロバットを演じて、「早くからやれば言語は簡単に身につく」というものになってしまっていることが少なくない。だから外国語も、できれば生まれたときからやるのがよい、と。ここで健全な論理的思考力をお持ちの方であれば、「だったらそれは、その子にとってちっとも外国語ではないではないか。というか、その子には母国語がないということになってしまうではないか」とお気づきになるだろう。そのとおりである。わが子にひとつやふたつ、できれば三つや四つの“外国語”を身につけさせたいと思い、“早くからやれば身につく”だろうという幻想に囚われてそれを極端に実践したとすれば、“外国語”を身につけさせたいという最初の前提に矛盾してしまうのだ。こんなことは外国語教育の専門家でなくとも、まともな論理的思考ができれば容易に導き出される結論である。ところが、肝心要の“なぜわが子に外国語を身につけさせたいのか”という部分を深く考えない親は、“英語ができる人=国際人”という軽重浮薄な等式を頭の中で勝手に作り上げてしまい、なにやらとにかく早くからやらせさえすれば、凡人を凌ぐ特殊な能力をわが子が身につけられるにちがいないと安易に考えてしまうらしい。愚かなことである。早くからやれば言語が簡単に身につくのであれば、二十年、三十年と日常生活で日本語漬けになってきたくせに、日本語で満足にまとまった話もできず、読み書きもむちゃくちゃ、てにをはさえ怪しいというネイティブ日本人がこんなにたくさんいるはずがなかろう。要するに、モチベーションの問題なのだ。

 鳥飼氏はさらに、みずからのコンプレックスを刺激された親の幻想と、人材育成に投資する余裕がなくなり“即戦力”とやらを求めるようになった企業との奇妙な連携が、教育現場を置いてけぼりにした根拠薄弱な早期英語教育推進に拍車をかけている実態を淡々と指摘してゆく。「早ければ早いほどよいにちがいない」という幻想のみを根拠にした、ナンチャッテ国際化の雰囲気と親のコンプレックスが先行する英語早期教育への過剰な期待は、子供に余計な負担を強い、劣等感すら植えつけるものだと、英語教育と同時通訳の場に精通した鳥飼氏は鋭く指摘する。

 また、現実的問題として、仮に小学校で英語を必修化したところで、全国二万三千校の公立小学校に、小学校専属のALT(外国語指導助手)は、二〇〇五年七月現在で百二十一人しかいないのだという。民間に人材を求めたとて、本人が英語ができることと、小学生に教えられるプロであるということとはまったくちがう。しかも、外務省が募集・選考し、文部科学省が研修等を行い、総務省が全体の招致計画や財務面での面倒を見ている“公式なALT”以外に、地方自治体の教育委員会などが民間の派遣業者に委託して派遣してもらっている、資格を問われないALTが多くいるのが実態なのだそうだ。早い話が、あなたが“ただ日本人であり日本語をしゃべる”というだけで、外国の小学生に日本語を教えさせられているようなものなのである。もちろん、教育の技術というのは、そんな甘いもんではない。相手がビジネスマンや大学生ならともかく、心理的にも未熟な、発達段階の途上にある子供を教えるのには、“英語をしゃべるだけのふつうの人”では不適格なのはあきらかだろう。現状でもそんなお寒いありさまなのである。必修化したとて、小学生に英語を教えられるちゃんとした人材など、逆さに振ってもどこからも出てこないのだ。

 大爆笑しながらも背筋が寒くなったのは、本書で紹介されているバトラー後藤裕子氏による報告だ。現在、小学校で“英語活動”として行われているものの実態は、こんなとんでもないものなのかと衝撃を受けた。あんまりすさまじくも嘆かわしいので、引用しよう――

 東京都内の、ある小学五年生の授業。担任の先生が、まずは英語の歌のテープを流します。それが終わると、次に「ゲームを始めよう」と言って、各班に野菜や果物の絵が描かれたカードを引いてもらいます。
「みんなの前で言ってみよう」という先生の掛け声に応じて、リンゴのカードを引いた男の子が立ち上がって、こう言ったそうです。
「アイ・アム・アップル!」
 先生もニコニコして、繰り返します。
「アイ・アム・アップル!」
 それぞれの班の子どもたちも、それに続きます。
「アイ・アム・ピーチ!」
「アイ・アム・バナナ!」
「アイ・アム・グレープ!」
 ……
 あとでバトラー後藤さんにこの授業風景のビデオを見せられたアメリカ人英語教師たちは、「これは英語ではない」と、目を白黒させたそうです。

 このアメリカ人教師たちが全員「目を白黒」できたかどうかはさておき、おれはこんなことをさせられている子供はもちろん、担任の先生を気の毒に思った。英語教師の資格を持っているわけでもないのに、小学校の先生であるというだけで、専門外のことをやらされているわけである。しかも、その知識は英語教師としてはたいへん心許ない。で、子供は子供で、「自分は小学校で英語を習った」という誤った思い込みを抱えたまま、中学校へと進学してゆくわけだ。すべての公立小学校で、これほどすさまじく無意味なことが行われているとは思わないが(そうだったりして……)、こんな学校があることは事実なのである。いやあ、おれは独身で子供もいないが、もし子供がいたら、こんな学校へやりたくないね。こんなバカなことで子供の貴重な時間を奪っているのなら、代わりに尋常小学唱歌でも教えるがいい。

 最終章の「日本の英語教育はどうあるべきか」では、世間で幅を利かせている「学校英語は文法ばかり教えるから役に立たない」という固定観念を覆す主張が、説得力あるデータと共に展開される。

 そう、たしかに奇妙なのだ。「学校英語は文法ばかり教えるから役に立たない」とさんざん言われていたのは、おれたちが中学・高校生のころ(まさに、若き日の鳥飼玖美子先生を「カッコいいなあ」と思いながら、おれが短波ラジオを聴いていた二十数年前)から……いや、それ以前からずっとである。一九八九年の学習指導要領の改訂で、それ以降の子供たちは、おれたちが受けていたよりもずっと「聴く」「話す」に重点を置いた英語教育を学校で受けているはずなのに、「学校英語は文法ばかり教えるから役に立たない」という固定観念は、いまも子供たち自身や親を支配しているらしいのだ。不思議なことである。

 日本は TOEFL の成績で中国や韓国に負けているが、これとて、“悪しき文法中心教育”のせいではない(そもそも、すでにそんな教育はしていない)ことが、本書では明白にデータで示される。早い話が、日本は「聴解」「文法」「語彙」「読解」のいずれに於いても、中国や韓国に負けている。とくに「読解」で大きく差をつけられている。また、ついでに言えば、高校生の勉強時間でも負けている。おまけに、中国・韓国では若い世代が TOEFL の平均点を引き上げているのに対し、日本では若い世代が平均点を引き下げているのだ。オーラル・コミュニケーション中心の学習指導要領に則った教育を受け、かつての“悪しき文法中心教育”とやらの影響を脱しているはずの若い世代が、いったいどうしたことであろうか? こうしたデータに即した実態を見ずに、思い込みと雰囲気だけに流されてはいけないと鳥飼氏は警告する。なにかと政治的思惑がおありの方々は、そういう世論をこそ利用するのだ。

 わが子を、母国語も満足に操れないうえに似非英語を刷り込まれただけの根無し草にしたくなければ、小学校での英語必修化は国際化社会の要請などという世迷い言に、軽々に惑わされてはならない。独身のおれが言うのもなんだが、世の親御さん方には、ぜひお読みいただきたい、英語のプロからの力強いメッセージである。


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2006年7月29日 (土)

君の瞳に乾杯

ライス長官、ピアノで隠し芸デビュー ASEAN会議 (asahi.com)
http://www.asahi.com/international/update/0728/005.html

麻生氏、ASEAN外相夕食会でウルトラマンと寸劇 (Sankei Web)
http://www.sankei.co.jp/news/060728/sei043.htm

 いやまあ、国務長官やら外務大臣やらともなると、いろんなことをさせられるもんだ。ライス氏がピアノがうまいのはCNNのサイトだったかで生い立ちを読んで知っていたが、麻生外相がボギーですか。ほんとは愛読する『ゴルゴ13』がやりたかったんじゃないの?

 そういえば、麻生氏もウケを取った、有名な「君の瞳に乾杯」なんだが、言うまでもなく、映画字幕の最高傑作のひとつとして人口に膾炙している。だが、そのわりには、ウェブを検索してみると、"Here's looking at you, kid."がどうして「君の瞳に乾杯」になるのかよくわからないと悩んでいる人が多いのだ。ちょっと意外である。映画か英語かその両方かが好きな人はたいてい知ってるもんだとばかり思っていたのだが、よく考えたら、おれが「なーるほど、こいつはたしかにすごい訳だ」と感心した十七、八のころからもう二十数年経っているわけで、おれの若いころでも十二分に古典だった『カサブランカ』は、いまの英語青年(?)たちにとって、おれたちが感じていた以上に大むかしの映画になっちゃってるんだろう。こういうのは、おれたちみたいなロートルが繰り返し書いて伝えてゆかんといかんのだろうな。

 「君の瞳に乾杯」に悩んでいる人は、たいてい"Here's looking at you, kid."という字面に囚われてしまっているようだ。「"Here's to you, here's to us, here's to..."みたいな乾杯はたしかに聞いたことあるけど、“瞳”はどっから出てくるの? やっぱり“超訳”なのかなあ?」てな調子で首を傾げている。この文章だけを“英文解釈”しようとしているのなら無理もない。これは映画の台詞なのだということを忘れてはいけない。本来、映像と切り離してはいけないものなのだ。

 あのシーンのボギーに感情移入して想像してみるといい。あなたは鼻が触れそうなくらいバーグマンに顔を寄せて、二人は見つめ合っている。バーグマンの大きな瞳は潤んで輝き、まるで杯のようだ。と、あなたはそこになにかが映っているのに気づく。男の顔だ。その男はじっとこちらを見つめているのだが、それはすなわちあなたが目の前の女性を見つめているということだ。そこであなたは、その瞳の美しさとそれに魅入られた自分とを端的に織り込んだ気障でハードボイルドな台詞を優しくつっけんどんに口にする……。

 そういうわけなのである。二人を横から見て、台詞の字面だけを“読もう”としていたのではわからない。映像の中のボギーに、あなた自身がなったつもりで解釈すれば、「君の瞳に乾杯」が、さすがは字幕史に残る名訳だけのことはあると、字面文法を超えたところで、しみじみと納得がゆくはずである。無粋なヴァルカン人にでも説明するつもりで言えば、「美酒を湛えた杯のような君の瞳に映っている男はじっと君を見つめていて、なんとそれはおれではないか。そのおれの感動を、いまここにこうしているおれたちの刹那を祝して、君に伝えよう」とでもいったことを、わずか六文字に凝縮しているのが「君の瞳に乾杯」なんである。まことに奇跡的な傑作、やっつけ仕事ではなく、その映画に惚れ込み、登場人物に次々と深く感情移入してゆかないと出てこない訳だ。伊達や酔狂で名訳として知られているわけではない、作品への愛が感じられる職人の仕事である。

 まあ、麻生外務大臣の演技からそういうことに思いを馳せろと言っても、多少無理があるとは思うけれども……。

 ♪You must remember this
  A kiss is still a kiss
   A sigh is just a sigh...



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2006年7月28日 (金)

感情移入

 羊羹を液体にしたドリンクが出現したとしたら水羊羹の立場はどうなるのだろうと想像すると、水羊羹の居心地の悪さが察せられ、なんだか気の毒になってくる。新参者のほうは「羊羹水」と呼べばいいという周囲の慰めも、水羊羹を癒すことはできないだろう。

 ……といったことを考えていると、なんだかとても疲れる。ほかに心配することはないのか?



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2006年7月27日 (木)

これがなかなかうまい

Goyachips
 最近お気に入りの菓子。ゴーヤ独特の苦味が焼酎によく合う。酒呑みながらつまんでいると、ついつい歌が出る。さあ、みなさん、ご一緒に!

 ♪ゴーヤー、よい子だ、ねんねしなー



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2006年7月26日 (水)

「蚊の鳴くような声で」

 ……などと言うが、蚊は鳴かない。子供のころから気になってしかたがないのである。が、いっそアブラゼミの声で鳴きながら飛んでいる蚊というものを想像してみると、それはそれで、なにもない空間がだしぬけに鳴いているかのようで、鮮烈なイメージではある。



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2006年7月25日 (火)

心に愛がなかったら ただのゲームさ戦いも

ジダン頭突き、歌になって日本上陸! (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/nikkan/NIK200607250012.html

 ああ、知ってる、知ってる、

 ♪ジダン、ジダン…!
  人間(ひと)は誰でも
  ジダン、ジダン…!
  ひとつの太陽

 ってやつだ。え? ちがう?



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『ミッションスクール』(田中哲弥/ハヤカワ文庫JA)

 「下痢のため一刻も早く排便したいのですなどと十七歳の女子高生が人前で言うはずがないのだ」などという書き出しの“ライトノベル”があろうはずがないのだ。暗い、支持のない世界で生まれた三つの短篇……。だが、その醜い字面の中には、SFの血が流れていたのだ。電撃文庫になれなかった三つの短篇は、〈SFマガジン〉に掲載された一篇と書き下ろし一篇を加えて、妖怪文庫……じゃない、ハヤカワ文庫として世に出たのであった。

 というわけで、「『やみなべの陰謀』から7年、今世紀初の新作、奇跡の刊行!」とまで腰巻に書かれて作者は喜んでいる場合なのかという疑問もあろうが、読者としては喜ばしいことである。

 収録作は、スパイもの、ホラー、ファンタジー、アメコミ、純愛ロマンの定型“だけ”を守りながら、ほかはなにひとつ守らず、失うものはなにもないとばかりにハチャハチャなストーリーを展開する。そりゃあ、〈電撃hp〉誌で嫌われるはずである。そもそも定型というものを十全に学習していないであろう読者層へ向けて、定型の素晴らしさを礼賛しアホらしさを茶化すのを同時に行うという高度なコメディを繰り出すなどというのは、アホのすることである。損得勘定ができないアホである。おれは個人的にはそういうアホが大好きであるが、TPOというものがありましょうが。

 先ほど“ハチャハチャ”と書いたが、本書は、おれたちの世代がかつて親しんだハチャハチャの代名詞、横田順彌のそれとは少し趣を異にする。田中哲弥はおれと同学年だから(ついでに大学も同じ、学部まで同じなのだが、こんなケッタイな人物と学生時代に知り合わなくてよかった)、筒井康隆かんべむさし“ドタバタ”SFと認識し、横田順彌を“ハチャハチャ”SFと認識しているはずである。で、本書の田中哲弥自身はというと、ドタバタとハチャハチャの中間より少しハチャハチャ寄りくらいのところを、安定的に飛行している。むちゃくちゃをやっているようで、ぴたりとその空域をキープして飛んでいるのである。緻密とすら呼んでもよい。いささか職人的すぎるくらいで、もっと不安定であってもよいのにと思うほどだ。本書は、ハヤカワ文庫という場を得て、晴れて正しい読者のもとに届けられたのである。どういう読者かというと、「あ、これはドタハチャのハチャ寄りだな」と本能的にわかってしまうような読者である。

 本書では、田中哲弥の奇妙な話法が随所に炸裂する。

 「トイレですよ、先生」よく見ていたな、と雄作は少し驚きながらも早苗に笑みを向けた。

 この「よく見ていたな」は、ブンガク的に言うと、“描出話法”(represented speech)というやつである。登場人物の心内発声を地の文として表現する話法だ。いわゆる“意識の流れ”風の文体を好む作家は、あたりまえのように多用する。あんまり珍しくない。だが、これはどうだろう――

 「マングースに似てるなあと思ったらここにいたんだ」坂崎が言った。途中がほとんど跳んでいる。いやなことは本当に綺麗に忘れるタイプらしい。

 この作品は、一人称語りではない。形式的には、いわゆる“神の視点”で書かれており、登場人物はすべて三人称扱いだ。じゃあ、ここで「途中がほとんど跳んでいる。いやなことは本当に綺麗に忘れるタイプらしい」と語っているのは、いったい誰なのだ? この小説の中のことはことごとく知っているはずの神が「らしい」と推量しているのである。これはもしかしたら、描出話法なのか? いや、坂崎という人物を客観的に評価している“誰か”の心内発声だ。誰だ、それは? ほかの登場人物のようであり、“神の視点”の語り手のようでもある。曖昧なのだが、すんなり読めてしまう。じゃあ、これは――

「いえ、感染は一度きりです。一度噛めばその後狐はただのキタキツネに戻ります」
「え、なんで?」
「そういうものだからです」理由になっとらん。「そうでなければたとえばピーター・バーカーを噛んだ蜘蛛が他の人も噛んだ場合スパイダーマンがたくさん出現してしまいます」
「ああなるほどなあ」納得するか普通。

 「理由になっとらん」と思っているのは誰なのだ? 「納得するか普通」とツッコんでいるのは、いったい全体、誰なのだ?

 そう、誰かがツッコんでいるのである。それは地の文を進行している“語り手”のようであって、ビミョーに異なる誰かなのだ。“神の視点の語り手”の肩のところに、もうひとり語り手に憑依して茶々を入れているやつがいる。それは作者であって、また、読者でもあるという不思議な視点だ。作者が読者の視点から茶々を入れている。と同時に、そのことによって読者にも作者の視点を持たせてしまう、なんとも奇妙な語りである。『ちびまる子ちゃん』のキートン山田みたいなものだが、あれはマンガだからなんの疑問も抱かないのであって、これを小説でさらりとやってのけるバランス感覚は超絶技巧だと思う。ちょっと匙加減をまちがえると、視点がとっちらかってたいへん読みにくいものになり、最悪、小説が崩壊してしまう。小説教室やなんかで小説を書きはじめた人が、下手に田中哲弥の真似をした作品を先生に提出しようものなら、「ここはいけませんね。視点はどこにあるのですか?」などと直されてしまうかもしれない。ちなみに、慣れない小説を書きはじめたころのつかこうへいは、唐突に視点が移動してしまう文章を見咎めた編集者に「視点はどこにあるんですか!?」と指摘されたとき、「観客にあんだよ」と答えたとか。そういう意味で、田中哲弥が本書で駆使するような文体は、さりげなく演劇的である。読者は、読者ではなく、ときに観客になって読むべきなのだ。

 『マカロニほうれん荘』とか読んで怒るような人にはお薦めできない。ステロタイプをこよなく愛し、ステロタイプの破壊もこよなく愛する人は、座右の書としていただきたい。



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2006年7月23日 (日)

なにを求めて君はさまよう?

 ひさびさの《ヘンな検索語》シリーズである。今日、こんなのがあった――。

「フジ隊員 アンヌ隊員 エロ小説」

 あのですね、この人はいったいどういうものを探しているのだろう?

 いやまあ、ちょっと気持ちはわからないでもないけどねえ。



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宇宙へのメッセージ

 Google Earth で遊んでいたら、大阪のビジネス街に謎の“地上絵”のようなものを発見した。どうやら四つの文字らしいのだが、付近に写っている自動車の大きさからすると、ひとつの文字が十五、六平方メートルはあるだろう。

 いったい誰が、なんのためにこんなものを描いたのかは、まったくの謎だ。高空から見なくては識別できない紋様なので、そもそも目的がよくわからない。もしかするとこれは、古代の人々が宇宙人へ向けたメッセージなのではなかろうか。気になる人は、Google Earth で「34°41'49.16"N/135°31'54.90"E」を見よ。



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2006年7月21日 (金)

奇妙な果実

 あのメーテルにまで小便をする擬音を口にさせた掟破りの「DAKARA」(サントリー)のCMに、ついに最近南海キャンディーズが登場している。いやあ、しずちゃん、かっこいいなあ! 丸っこいビリー・ホリデイといった風情。"There's something bad in me."という台詞、存外に発音がいいのでびっくりした。there がちゃんと発音できている。もともと英語ができるのか、このCMのために特訓したのか。いずれにしても、さすがスポーツウーマン、運動制御の勘がいいのだろう。いっそ、しずちゃん、ビリー・ホリデイのカバーCDでも出したらどうだ?



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2006年7月20日 (木)

「Amazonおまかせリンク」を試してみる

 アマゾンのアフィリエイト用リンクに「Amazonおまかせリンク」ってのが新しくできていたので、試験的にやってみることにする。「常にあなたのWebサイトの内容に沿った商品を自動的に選択して表示します」というのだから、要するに、Google AdSense のアマゾン版といったところだろう。AdSense はなにが出てくるかわからないから、おれはまだちょっと抵抗があって試していないのだが、「Amazonおまかせリンク」なら、あまり突拍子もないものは出てこないだろう。おれの日記なら、おそらく本とかパソコン関係のグッズとかが主になるはずだ。

 というわけで、さっそく画面右下のあんまり誰も見ないようなところではじめてみたわけだが、なぜか《涼宮ハルヒ》関係の本がやたら出てくる。うーむ、当たらずといえども遠からず(?)といったところかな。



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この素晴らしき世界

 ふと、われに返る瞬間がある。

 で、今日も今日とて、ふと、われに返ってみると、巷では親が子供を橋から突き落として殺し、ついでのようにして近所の子を殺すかと思えば、日本に逃げてきた外国人は悪魔に憑依されては年端もいかぬ子供をいたぶって殺す。だからというわけでもなかろうが、子供は子供で親を殴り殺してパチスロに興じてみたり、兄弟姉妹ごと焼き殺してリセットしたりしようとする。かと思えば、エレベーターや湯沸かし器までが人を殺すのだが、そんなものを作ったやつらは知らぬ存ぜぬを通そうとする。そんな物騒なところに、これまた、いつ隣国からミサイルが飛んでくるかわからないのだ。

 それでもおれは、おれのいとおしくもバカバカしい日常を、今日も変わりなく営んでいる。そういうものだ。



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これではよくないのだ

 洞口依子のブログで紹介されていたので、晩飯食ったあとで受験してみた。四度落ちたのであきらめた。バカ田大学にすら入れないとは情けない。おれも耄碌したものだ。くそー、この学生証、見てると欲しくなってくるよな。洞口氏は一発で合格したというのだから、やっぱりこの人はすごい。



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2006年7月19日 (水)

今月の言葉

偽善者操業


 なにしろ先月末からパソコンが使えなかったもんだから、今月の「今月の言葉」は、いまごろ発表ということになってしまった。

 当然、「偽善者泥棒」という踏んだり蹴ったり(?)のネタもあるわけだが、むかしのイタリア映画なんて、観たことない若い人が多いだろうから、こっちの汎用的なネタのほうにしてみた。なにが汎用的なんだか。



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ひさびさに新作がでけた

『時をかける少女』『目を擦る女』くらいちがう」

 どうしていままで思いつかなかったのだろう? どちらもあまりにも馴染みがありすぎ、頭が固くなっていたのかな。それとも、おれにとっては永遠のアイドルである原田知世を、小林泰三などという邪悪な存在と結びつけて考えまいとする無意識の抑圧が働いていたのか?



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2006年7月18日 (火)

『スカイハイ 劇場版』を観る

 パソコンが帰ってきたもんだから、連休最終日はちょうど「GyaO」でやっていた『スカイハイ 劇場版』(監督:北村龍平)を観た。

 うーん、なんだかなー。チャンバラ以外は、あまり見るべきものがない。そのチャンバラも、『あずみ』みたいである。これなら、テレビシリーズのほうが、よっぽど深みがあって面白い。心臓を六個集めて悪魔を呼び出そうという連続殺人犯と闘う、怨みの門の門番の転生者たち――ってあのなー、『魔界転生』じゃねーんだから。映画だからって、プロットがあまりに陳腐だ。『スカイハイ』は、つまるところ、怨みの門という秀逸な設定とイズコというキャラクターで補助線を引くことで、よりエッジの立ったドラマを展開する『人間交差点』なのであって、そこのところを外しては固定ファンを落胆させるだろう。

 まあ、釈由美子のファン映画としては許す。釈由美子が剣を振るう姿と眼は、それだけでサマになる。それはそれで釈ちゃんの眼がいいのはあたりまえなのだが、もうひとつ、この映画で拾いものだったのは、菊池由美の名演である。かつて怨みの門番だったこともある霊能者という役柄だが、意外や意外、この映画でいちばんの名優だと思う。たいへん霊能者がサマになっていて、しかも殺陣がむちゃくちゃかっこいい。完全に主役の釈を食っている。この人、本職の女優じゃないから(声優はよくやっているが)、幅広い役柄がこなせるかどうかはわからないけれども、この作品のような役ならそんじょそこらの本職の女優を凌ぐだろう。ファンになってしまったよ。

 「GyaO」の『スカイハイ 劇場版』配信は、8月1日正午まで。



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やっとパソコンが使える!

 今日、というか、昨日、ようやくパソコンが修理から帰ってきた。まったく、パソコンがないと手足をもがれたようだ。今度こそちゃんと直っているようである。結局、電源ユニットが悪かったもよう。

 さあて、しばらくリハビリをして、元のペースに戻すぞ!



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2006年7月15日 (土)

ソイレント・グリーンは人間だ!

Green_copan02Green_copan01 いやそのまあ、なんとなく言ってみたかっただけ。



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2006年7月13日 (木)

把瑠都参上!

 最近、ニュース番組やらで相撲の取り組み表を見ると、なんだか暴走族の落書きみたいに見えるのは、おれだけだろうか。「夜露死苦」みたいな。



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2006年7月11日 (火)

全国の青少年に告ぐ

 親が鬱陶しくて苛立ちを抑えきれなくなったら、家に火を放つよりも、頭突きを食らわせてやるほうがずっとすっとすると思うぞ。少なくとも、ずっと健全であることはたしかだ。



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2006年7月 9日 (日)

牛車男

 ってのを唐突に思いついた。

 『源氏物語』のシェアードワールドものなのである。なぜかオーバーテクノロジーとしてインターネットの掲示板が存在しているのだが、書き込みはしばしば和歌なのである。牛車で外出しているところを酔っぱらいにからまれた妙齢の女性を気の弱い「御宅」が助け……みたいな話。

 この「牛車男」の恋を掲示板の仲間が励ましてゆくのだが、その中には光源氏やら桐壺やら紫式部やら清少納言やら虚実入り乱れた連中がいたりする。おれは紫式部を腐女子の元祖だと思っているので、牛車男とは非常に親和性が高いだろう。

 「きぬーー!」「いにてよし」など、平安時代風の2ちゃんねる語もしばしば使われる。むろん、清少納言は桃尻語で書き込みをする。

 ……みたいなの、誰か書きませんか書きませんねそうですね。



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2006年7月 5日 (水)

ある調査によると?

 「独裁者の三人に一人は、発射のときの勢いに不満を感じているの」



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ふと出た鼻唄

 ♪テポドンなら 帝都破壊に 自信が持てます

 持つなー!



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2006年7月 4日 (火)

「雲は白リンゴは赤」て

 ああ、人生幸朗師匠がご存命であったなら……。



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2006年7月 2日 (日)

一度、見てみたいもの

 始球式でデッドボール。



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完治してなかった

 じつは、修理から戻ってきたパソコンが、また修理前の症状を再発。再び修理に出した。最近じつに運が悪い。

 てなわけで、またしばらくケータイで更新する羽目になった。おれは古い人間なので、キーボードがないとやはりダメだ。ケータイで書くのはとてもいらいらする。これを機に女子中高生並みの高速入力が身につけばいいのだが……。



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