Web 2.0 と人工知能
いわゆる「Web 2.0」なるものに、なーんとなく既視感があるなあと思っていたんだが、おれなりに考えがカタチを取ったので書いてみる。
昨今の Web 1.0(なんて言いかたは、もちろん 2.0 なる言いかたが出てきてから遡及的に出たものだが)から 2.0 へのシフトの機運は、一九八〇年代の人工知能業界における流行の変転にとても雰囲気が似ているのだ。
そう、当時は“人工知能業界”としか言いようがないものがあったのである。人工知能の産業化と商業化が一気に進んだのが八〇年代だ。ま、人工知能が商売ネタとして脚光を浴びるようになったわけだ。なんでもかんでもAI、AIと言っていたバブルの時期である。当時ことさらAIアプリケーションなどと看板を掲げていた技術の多くはすっかり“浸透と拡散”が進み、いまではあたりまえの基盤技術としてあちこちに取り入れられていたりする。八〇年代の人工知能業界を思い起こすに、アメリカでは人工知能研究のセールスマン的な役柄を担っていたエドワード・ファイゲンバウムという学者が、日本の第五世代コンピュータ・プロジェクトなどを挙げて、アメリカが遅れを取ってはならぬとばかりに過度に日本の脅威を半ば政治的に煽り、日本は日本で、ほら、ファイゲンバウムもあんなに熱心に布教しているんだから、とにかく時代は人工知能なのだとばかりに、奇妙に盛り上がっていた。日米は、お互いの誇張された盛り上がりを口実に盛り上がり、それがさらにお互いを盛り上げていたわけだから、まさにハウリングを起こしていたようなものだ。そんな作られたバブルを、まともな研究者たちは、冷笑的に迷惑がったり、うまく利用して予算を獲得したりして、けっこう冷静に捌いていたように思える。
まあ、そういう時代の空気はともかくとして、いま進行中の Web 1.0 から Web 2.0 へのシフトは、八〇年代後半に起こった、記号論理の操作によるルールベースの人工知能から、エージェントの集合体の挙動としての人工知能への流行のシフトにとてもよく似ている。ウェブの総体をある種のAIと考えた場合(そいつがなにを“考えて”いるのだかわからないが)、その設計思想がルールベースの control 指向からエージェントベースの cooperation 指向に移行しようとしているのが、まさに Web 1.0 から Web 2.0 へのシフトなのではないだろうか。少なくともおれは、そんなふうにいまの状況を捉えている。
“シフト”というのは適切でないかもしれない。人工知能の世界だって、自律エージェント万々歳でルールベースは古くて使いものにならないというわけでもないだろう。流行の重点が移っただけだ。ルールベースは柔軟性に欠け、ふるまいが“硬い”が、なにをどうしてそういう推論結果が出てきたかというのをトレースしやすい点では、ある意味で信頼できる。エージェント群が総体として出した推論結果など、怖くて信用できないという考えかたもある。時に魔法のように柔軟でインテリジェントなふるまいを見せるが、どうしてそんな推論結果が出てくるのか、ふるまいが非線形なため、“人間のように賢く見えるが、人間程度にしか信頼できない”ということにもなるわけだ。両者のよいところが、それぞれに適材適所で使われているのが、いまの実用ベースの産業利用の実態だろう。おそらく、人間の脳だって、非常に柔軟性の高いエージェント群の非線形なふるまいを最大限に利用する部分と、フリップフロップに近いほどに一意性の高い情報の“整流”を行なう部分(「おばあちゃん細胞」とか?)とが混在して、ダイナミックな動きをしているのだろうと思う。
Web 2.0 の台頭をこのようなアナロジーとして捉えるならば、Web 1.0 が完全に滅びてしまうわけではないのは自明のことだ。むしろ、Web 1.0 と Web 2.0 とは、それぞれの得意技を活かして共存してゆくことになるのだろう。
まあ、SF的に、ちょっとロングショットの想像をしてみるとするなら、Web 2.0 的なもののふるまいを研究する中から、遠い将来には、たとえば社会性昆虫の群体のふるまいを制御するかのようなテクノロジーのパラダイムが出てくるかもしれない。それは、ナノマシンの群体を制御して所与の出力を得なければならないような場面において、大いに役立ってくるのかもしれない。ま、これはちょっとSF的すぎるかな? そういうテクノロジーは、現在とはまったくちがう意味で、将来“ソーシャル・エンジニアリング”とでも呼ばれることになるのかもしれない。
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コメント
Web2.0の考え方というのは、プレイヤーが必ずしも合理的思考をするとは限らないという行動経済学と通じるものがあるような気がします。
にもかかわらず社会の規則はプレイヤーに合理性を求めている。このギャップをネットワークのエージェントがどう埋めてゆくか。非線形の存在が発散では無く、収束に向かうとすると、人間という非合理な存在は機械の介入により合理的プレイヤーとして振る舞える……か、どうかはしらない。
投稿: 林 譲治 | 2006年5月21日 (日) 22時03分
>林譲治さん
>プレイヤーが必ずしも合理的思考をするとは限らない
そのあたりが面白いですね。個々のプレイヤーは必ずしも合理的思考をするとはかぎらないということを前提としているのに、充分に多様性を持つ群体は「まあ、そこそこ合理的にふるまうもんだ」と楽観的に見ている。というか、その集合知に信頼をおけるかどうかが、Web 2.0 的なものに馴染むか馴染まないかの試金石になるように思います。
「世間のやつはほとんどバカ」という井の中の蛙的スタンスの人は、Web 2.0 的な姿勢を本能的に嫌うだろうと思います。たまたま狭い世界で育って、賞賛や追従以外の意見が自分に向けて飛んでくるなんてことを体験したことがないわけですから、いまのウェブなんて、それはそれは仰天体験の連続でしょう。そういうメンタリティーの人は、ウェブ恐怖症になってしまうか、ウェブなんて価値がないとそっぽを向いてしまうか、どっちかでしょうね。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月22日 (月) 00時03分
一風変わった視点での「脳内構造」のホームページを作成したのですが、よろしければご批判お願いできないでしょうか?
投稿: ノース | 2007年6月29日 (金) 11時03分
>ノースさん
私は人工知能の専門家でも生命科学の専門家でも哲学の専門家でもありませんから、あくまでSF屋としての与太ですが、ざっと拝見したところ、発想自体はさほど目新しいものとは思えないのです。パーセプトロンを複雑にしただけという感じすらします。
でも、こういうアプローチで、電子的なシミュレータや末梢からのフィードバック機構・学習機構を備えたロボットを作るといったアプローチは、脳ばっかりに注目する頭でっかちなアプローチのアンチテーゼとして、実際に近年のロボット工学でも注目されているアプローチですよね。
そうしたロボットを作った結果、かなり知能を持っているように見えるものができたとしても、それが“意識”を持っているのかどうかの証明は、まだまだわれわれの手の届く科学ではできないだろうと思います。
これは素人の勘にすぎないのですが、生物というものは、究極のオブジェクト指向の産物だろうという気がします。外界からの刺激ありき、環境ありきで、膨大な試行錯誤の末に“生存のための情報の整流のしかた”を発達させていった結果、知能が必要になってきたということだろうと。右左の区別がないスリッパを買ってきて履いているうちに、次第に右用と左用に分化してゆくといった進化をするものでしょう。だとすると、末梢から中枢が作られてゆくという考えかたは、私には妥当なものだと思えます。
しかし、中枢もまた末梢を制御するようになってくるわけで、生物の進化は、中枢と末梢とのダイナミックな相互作用で形作られてくるのだろうという気がします。
いずれにせよ、末梢から中枢が形作られてゆくという思想の延長線上にあるアーキテクチャを元に、生物のシミュレータを作っているうちに、生物が知能を析出する必然の謎に迫ってゆけるということもあるだろうと思いますので、ノースさんのアプローチ自体は、なかなか面白いとは思いますよ。もっとも、そこまで単純なモデルでうまくゆくような気はしないので、なにはともあれ、そうしたアーキテクチャに基いて、シミュレータなりロボットなりを作ってみないと、サイエンスの研究としてはなんとも言えませんよね。
投稿: 冬樹蛉 | 2007年7月 2日 (月) 02時50分