“愛国心”って、要するに“慣れ”のことでしょ?
かれこれ四十三年ほど生きているが、おれにはいまだに“愛国心”というものがよくわからない。“日本における愛国心”がわからないという政治的な話なのではない。それももちろんよくわからないのだが、そもそも“愛国心”という言葉がなんなのかが、おれにはわからない。シニフィアンはそれそのものとしては空疎に認識してはいるが、シニフィエやレフェランがわからない。要するに、言葉として意味がさっぱりわからない。
おれが個人的に最も疑問に思っているのは、愛国心というのは、その存在そのものが一種のトートロジーなのではないかということだ。Xさんは、A国に生まれ、A国の言語、A国の文化にどっぷり漬かって、A国で育った。とすれば、Xさんの人格はA国というものの存在を前提に形成されているのだから、Xさんに愛国心があるかどうかを問うこと自体が、そもそも奇妙な行為なのではないかと思うのだ。おれの疑問、わかってもらえるかな? ちょっと即物的に言い換えてみよう。おれの身体は主に炭素や水素でできている。そのおれに「炭素や水素は好きですか?」「炭素や水素のために死ねますか?」と訊くことになにか意味があるのだろうか? そういう話じゃないって? いいや、そういう話だよ。人格を認めるに足る人工知能が完成し、そのコードが仮に Java で書かれているとしてだな、その人工知能に「あなたは Java を愛していますか?」と尋ねているようなものだろう、“愛国心”という言葉は? ちがう?
おれは日本語が好きだし、納豆が好きだし、お茶漬けが好きだ。豆腐も好きだ。日本に住んでいるということ自体が好きだ。しかしそれは、おれが日本に育って日本にしか住んだことがないからであって、単なる“慣れ”にすぎない。おれがほかの国に生まれて、ほかの国で人生をやり直せる方法があったとしたら、そのとき初めて、「日本と比べて、おれはこの国を愛している」という比較ができるのであって、そんな方法がないからには、“愛国心”という言葉には、単に“おれという人格はこの国に最も慣れている”という以上の意味などあり得ない。論理的にそうだ。でしょ?
要するに、「国を愛する」とか言うから話が政治的になるのであって、「国に愛着を持っている」(つまり、ただ単に「慣れている」)以上でも以下でもないと思うのだな、“愛国心”というやつの正体は。そういう意味なら、おれは愛国心の塊である。ものぐさだからだ。できるだけ多くの異なる国に“愛着”を持つのは、考えただけでもたいへんな労力を要することだ。
おれがいま使っている腕時計はそろそろ買って三年になるが、もしこいつを生まれたときから四十三年と半年くらい使っていたとしたら、おれはこの時計に日本という国に対するのと同じくらいの愛着を持つことだろう。それだけのことなのだ。おれには、いわゆる“愛国心”と“国に対する愛着”との区別が、皆目わからないのである。まったく同じものだと思っている。おれの愛国心は、腕時計や眼鏡やペンやパソコンやケータイに対する愛着心の延長線上にある。おれが納豆が好きだという気持ちの同一次元に愛国心はある。おれの納豆に対する愛着心を何倍かにすれば、それはおれの愛国心になるのだ。そうとしか思えない。
たいていの人はそうなんじゃないの? おれの言ってること、なにかヘン?
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コメント
政治家や役人が「愛国心を持て」と言いたがる理由は簡単。
『「自国民から愛される国を作ろう」と自らが努力する』より、『国民直接「愛国心を持て」と云う』方が、自分の手間が少ないから。
要は、正当なギブ&テイクとか民主主義とかを否定し、出力以上に楽に入力を得られるようにする「マックスウェルの悪魔」的な社会装置として、『愛国心』ってコトバは便利だって事。
実際は、『愛国者』なんて、一種の『確信犯』でしかないのにねぇ……。
投稿: 神北恵太 | 2006年5月 3日 (水) 05時44分
>神北恵太さん
「マクスウェルの悪魔」ってのは言い得て妙ですねえ。つまり、トートロジーってのは永久機関みたいなものだという意味で。マクスウェルの悪魔はまだせっせと粒子を選別して働いているわけだけど、愛国心にいたってはもっと安易かも。
むしろ、愛国心というのは、ホーキング放射みたいなものかもしれません。差し引きゼロになるはずの対生成する感情の片方を誰も手の届かないところに呑み込んでしまって、一応は表面から愛国エネルギーを放射させるようにする。そのぶん、国はじわじわと蒸発していっているというのに(笑)。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月 3日 (水) 06時10分
俺自身もほとんど愛国心って自覚した事ないんだけど、国境警備隊のない国で育つと国というものに対する意識は希薄になるのかもしれませんね。
突然大豆蛋白にアレルギーが出てアンチに変わったりして(笑)。
投稿: つるぞお | 2006年5月 3日 (水) 06時37分
ワタシこの色々ゆるくて何かに守られてるんじゃないのかってくらいに豊穣なるこの国に生まれてよかったと思ってるし愛してますけど
それを「愛国心」って言われると照れるの通り越して嫌悪感感じるなぁ…
「愛国心」ってなんかダークな響きがあって抵抗あるんですよね
投稿: ましゃみ | 2006年5月 3日 (水) 15時48分
>つるぞおさん
>国境警備隊のない国で育つと国というものに対する意識は希薄になるのかもしれませんね
それは、国境警備隊のない国に対する“慣れ”=“愛国心”の顕れ(?)じゃないかという気もするんですよ。
>ましゃみさん
>ワタシこの色々ゆるくて何かに守られてるんじゃないのかってくらいに豊穣なるこの国に生まれてよかったと思ってるし
それがつまり、やっぱり“慣れ”なんじゃないかなと。「あんな狭い国で、しょっちゅう地震やら台風やら火山噴火やらが起こるとは、何かに祟られてるんじゃないのか」と、日本に生まれなかったことに胸をなで下ろしている外国人もいるだろうと思います。それが日本から見るとまた、貧しくて政情が不安定で……といった国だったりするかも。
北朝鮮の人ですら、国家元首は愛していないかもしれませんが、“クニ”の自然や文化は、当然、“慣れているもの”として愛しているんだろうと思うのですね。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月 4日 (木) 03時26分
愛国心が慣れの問題というのは、正鵠を得た話だと思います。
いま日本の伝統とかいわれているもののほとんどが、いわゆる近代国家になってから人為的に作られたものであるのに、それが伝統で通用するのは、子供のころすでにその人為的制度があったからに過ぎない。
社会を維持するための国家という手段――であって目的では無い――もやはり同じ事なんでしょうね。
投稿: 林 譲治 | 2006年5月 4日 (木) 09時49分
なんかしっくりこないので、例題を「愛」→「慣れ」で置き換えて考えてみました。
「僕は君のことを愛してる」→「僕は君に慣れてきた」
「世界の中心で、愛をさけぶ」→「世界の中心で、慣れたと叫ぶ」
「愛する息子」→「慣れた息子」
「国を愛する」→「国に慣れる」
と言うわけで「愛」=「慣れ」+「好感情」じゃないすかね。
投稿: おおじじ | 2006年5月 4日 (木) 10時20分
>林譲治さん
私がここで言った“慣れ”というのは、“社会化”と言い換えてもいいかもしれません。ここでちょっとヒネた表現をした問題ってのは、フェミニズムにしても、部落差別問題にしても、原発問題にしても、およそ“社会とその社会に育まれた個人”という問題を考えるとき、常に立ち現れてくる強敵です。個人としては「これはヘンだ」と思うのに、その個人はそのヘンな社会に育まれたわけですから、結局、そのヘンなところに対峙するには、自分の一部を解体する痛みを伴う。相対化の刃は常に自分を切り刻みにかかるのです。“自分自身のコードを解析して書き換えるプログラム”が自身をリカーシヴ・コールするような厄介な問題ですね。
“愛国心”の問題はまさにそれなので、主観的に感じる“クニ”への愛着と、“国”を客体として分析する思考とは、視点を意識的に峻別すべきだと思うわけです。それを意図的にごっちゃにして、「国を愛さないとはけしからん」と問答無用のごまかしを行なう輩がしばしばいるので、そこは警戒しなくてはならないだろうなと。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月 4日 (木) 10時23分
>おおじじさん
それは面白い試みですね。ただ、「愛」=「慣れ」+「好感情」でちょっとひっかかるのは、“慣れていない(よく知らない)がゆえに愛する”ということもあるし、「慣れ」+「悪感情」が一種の愛情のようなものになることもあるというのは、経験的には感じられるので、なかなかそうも簡単には定式化できないんじゃないかなという気がします。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月 4日 (木) 10時28分
えーと、宇宙論で言う「人間原理」の国家版?
投稿: ROCKY 江藤 | 2006年5月 4日 (木) 19時58分
>ROCKY 江藤さん
究極のところは、そんな感じですね。“愛宇宙心”なんてものがあるかどうかわかりませんが、「この宇宙を愛しているか?」などと問われても、ほかの宇宙を経験したことがないので、さしあたり、この慣れている宇宙に愛着があるとしか言いようがないという……。それでもまあ、「おれはこの宇宙の光速が気に食わん」とか「プランク定数が醜い」とか思っている人もいるかもしれませんけど。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月 4日 (木) 23時25分
例えば腕時計というものが会社の備品で、毎日会社でずらっと同じものが並んだ中からランダムに1個選んで装着するとすれば、43年使って愛着がわくだろうか?その中で特定のを選んで使って、有機油とか注入してれば愛着わくかもね。
現代ではそうではないだろうけど、警備隊を置いて国境を守らないと国が保てない「俺たちが国を守ってる」状況と、ほっといても海岸線で国が切れてる状況ってのは、国というものに対する意識に結構な違いが出るのかもとも思うわけです。
投稿: つるぞお | 2006年5月 5日 (金) 01時51分
>つるぞおさん
それはたしかにあるでしょうね。でも逆に、陸続きのところだと「攻めてゆけば、国というのは広げられるものだ」という意識が、島国よりも強く出てくるだろうと思います。アメリカのように人工的に“国”を保持するための幻想を供給し続けなければならない国と、なにやら自然現象のように“クニ”が自明のものとしてある国とを、ほんとうは同一次元で“国家”という枠で括ってはいけないのではないかという気もしているのです。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月 5日 (金) 07時31分
レスありがとうございます。
実のところ、このコンテンツを「単なる感情に過ぎない「愛国心」なのに、何故か「愛」と言う崇高なイメージのある言葉でコーディングしてあるものを、「慣れ」と言う身も蓋もない言葉で置き換えることにより、本質を捉える試み。」と考えまして、面白いと思いアレンジしてみたわけです(失敗しましたが)。
ご指摘の通り「愛」なる概念(感情)は「好き嫌い」(この場合は気持ちが良い悪いの極めて単純な感情とお考えください)よりも複雑な感情ですね。先の失敗は「愛国心」と言う限定された感情を、より複雑な「愛」と言う概念に拡大しているにも関わらず、限定された内容の「愛」と混同してしまった事にあると思います。
ここまできて、違和感が何故生じたか気が付きました、「慣れ」が習熟の状態を表す部分が強いのに「愛国心」はあくまで感情を表す部分が強い(個人の印象にすぎませんが)ため、齟齬感を感じたわけです。あえて書き直すなら「(慣れから来る)安心感」くらいですか。
数式風に書きますと頭のなかを整理しやすいのですが、妙に説得力があるため自分自身も誤魔化されて誤りに気が付きにくくなりますね。自戒します。
投稿: おおじじ | 2006年5月 6日 (土) 00時41分
>おおじじさん
>「単なる感情に過ぎない「愛国心」なのに、何故か「愛」と言う崇高なイメージのある言葉でコーディングしてあるものを、「慣れ」と言う身も蓋もない言葉で置き換えることにより、本質を捉える試み。」
まさにおっしゃるとおりの意図です。ミもフタもない角度からとりあえず見てみるというのは、SF者の発想の癖みたいなものです(^_^;)。
>数式風に書きますと頭のなかを整理しやすいのですが、妙に説得力があるため自分自身も誤魔化されて誤りに気が付きにくくなりますね。自戒します。
いえいえ、そういうの好きですよ。どんどんやっちゃってください。この日記はあんまり緻密な議論を交わすのにふさわしいような場ではなく、茶化しやら韜晦やらナンセンスやらでとにかくオモロそうなことを試しに言ってみる程度のお気楽なところだとお考えいただければ。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年5月 6日 (土) 07時15分