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2006年5月の37件の記事

2006年5月31日 (水)

一匹見つけたら三十匹いると思え

「わが国は、先進国であるにもかかわらず、乳幼児の死亡率が高い。これは由々しき事態である」
「おっしゃるとおりです」
「われわれの組織が生き残るため、四つの重要な施策を着実に実行に移してゆかねばらない」
「おお、さすがです。して、その施策とは?」
「ひとつは、減少しつつある小児科医の養成だ。優遇措置も考えねばなるまい」
「なるほど」
「ふたつめは、医療施設・設備の拡充とその地域差の緩和、三つめは、乳幼児疾病の早期治療を推進するための、親たちへの保健教育だ」
「すばらしい。で、四つめは?」
「そんなこともわからんのか。これらと並行して行えば効果抜群の施策があるだろう」
「……す、すみません、思いつかないのですが」
「キミは小学校のときにちゃんと分数をやったのかね? もちろん、少子化の推進だ」

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2006年5月30日 (火)

究極の光学迷彩

「透明マント作れます」英の学者ら開発理論 (YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20060526i307.htm

 英米の科学者らが26日、米科学誌サイエンス電子版に、「物体を見えなくする素材の開発は可能」とする論文を発表した。
 この理論を基に開発が進めば、小説「ハリー・ポッター」に登場する透明マントの作製も夢ではなくなりそうだ。
 光は普通、物体に当たって反射したり散乱したりするため、人間は物体を見ることができる。
 英セントアンドリュース大のレオンハルト教授らによると、光の進む方向を制御できる特殊な微細構造を持つ複合素材を開発できれば、川の水が丸い石に妨げられず滑らかに流れていくように、光が物体を迂回(うかい)して進む。
 この場合、人間の目には、そこには何もないように見え、影もできない。
 教授らは、手始めに特定の波長に対する“不可視性”を持つ素材の開発に挑むという。透明マントが実現すれば、軍事技術として利用できるため、研究は米国防総省が支援している。

It’s magic: science gets closer to creating the Invisible Man (The Sunday Times)
http://www.timesonline.co.uk/article/0,,2087-2200466,00.html

Pendry suggested such a material could be coated onto warships and tanks to make them invisible — although their wakes and tracks might give them away once they moved. “We know cloaking can be done with radar waves. Light waves are another form of electromagnetic radiation, so making a material capable of cloaking against light should be possible within a decade,” he said.
Pendry’s project is one of several around the world experimenting with invisibility. Astronomers at St Andrews University last week published a similar theory to Pendry’s but one derived from different research originating in the study of black holes.
At Tokyo University, researchers have used a much more low-tech system involving cameras and projectors to collect images from behind an object and then project them onto its front.

Scientists may be able to make magic like Harry Potter (CNN)
http://edition.cnn.com/2006/TECH/05/25/invisibility.cloak.ap/index.html

Such a cloak does not exist, but early versions that could mask microwaves and other forms of electromagnetic radiation could be as close as 18 months away, Pendry said. He said the study was "an invitation to come and play with these new ideas."

(中略)

While Harry Potter could wear his cloak to skulk around Hogwarts, a real-world version probably would not be something just to be thrown on, Pendry said.
"To be realistic, it's going to be fairly thick. Cloak is a misnomer. 'Shield' might be more appropriate," he said.

 こういうことが可視光線でも十年以内に可能だとか、マイクロ波などの電磁波でなら十八か月もすれば初期バージョンが作れそうだとか、ものすごいことを言ってるが、ほんとにできたら面白いなあ。もっとも、夢のある話とはほど遠く、当分は兵器にしか使われないだろうけどねえ。

 素人考えだが、このような複合素材が開発できたとしても、電磁波の周波数帯に、ある程度の幅で特化しそうな気がする。つまり、可視光線に対して透明になるようにチューニングすると、マイクロ波に対しては透明でなくなるといった具合にだ。上の記事で「川の水が丸い石に妨げられず滑らかに流れていくように」電磁波が迂回するという比喩を用いているが、水流の持つエネルギーが異なれば、必ずしもいつも滑らかには流れないんじゃないかと想像するんだな。

 この新種の光学迷彩、案外、簡単に破れそうな気もする。この複合素材の中では、結果的にあたかも素材が透明であるかのようなふるまいを光子にさせるために、きわめて緻密な制御をすることになるのだろう? そうした制御は、重力場によって空間そのものを曲げでもしないかぎり(サンデータイムズの記事によれば、ほんとにその種の研究をしている人もいるようだ)、電磁相互作用によるものでしかあり得ないだろう。だとすれば、可視光線に対して透明になっている状態の“透明マント”(“マント”というより“盾”とでも呼ぶのが適当だとのことだが)に、出力の大きな電磁波を浴びせてやれば、内部の電磁相互作用に乱れが生じて、光子をうまく制御できなくなるはずだ。人間の目で見たら、隠している物体のあるあたりが、ちょうど陽炎のように揺らいで見えるかもしれない。

 あっ、そうか! ネロンガは、この“透明マント”と同じ原理で透明になっているのかもしれないぞ。だから、電気を食っているときにだけ、可視光線が制御しきれずに姿を現すのだ。そうだ、そうにちがいない。四十年も前に現代の最先端科学技術を身につけていたとは、なんという先見的な怪獣だ。

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2006年5月29日 (月)

『中沢厚子ファーストアルバム あなたが母を愛したように あなたが父を愛したように』(中沢厚子/エレックレコード/紙ジャケット仕様)

 伝説のエレックレコード“復刻紙ジャケット仕様”の一枚。当時のLPレコードをそのまま縮小した食玩テイストが面白い。紙ジャケットに印刷してある文字は、虫眼鏡でもないと読めません。その代わり、ちゃんと中にライナーノートや歌詞カードが入っている(ご丁寧にも、現代仕様のブックレット方式の歌詞カードと、LPレコードに入っていた紙の復刻仕様の二種類)。もちろん、ディスクそのもののラベル面も、むかしのLPレコードそのまま。CDに「33 1/3」などと書いてあるのが、ちょっと笑えるけど、懐かしい。若い人には、なんのことだかわからないかもしれませんなあ。

 とはいうものの、一九六二年生まれのおれは、中沢厚子を懐かしがるほどの歳ではないのである。おれよりちょっと上くらいのフォークファンのお兄さん・お姉さん(当時)だったら、ストライクゾーンだろうとは思うが。おれがこの伝説のフォーク歌手を懐かしがっているのは、ひとえに、中学一年生のときに買った「タワーリング・インフェルノ ~愛のテーマ~」によるものである。

 そう、当時は洋画のテーマソングの日本語盤というやつがよく出ていた。『タワーリング・インフェルノ』という映画そのものもおれは大好きだが、Maureen McGovern の唄う主題歌 We May Never Love Like This Again が非常によかった。いまだによく聴く。モーリン・マクガヴァンは、この曲と『ポセイドン・アドベンチャー』の主題歌 The Morning After で、アカデミー主題歌賞を二度も受賞している。以前にも書いたように、おれ的には「パニック映画は主題歌」なのである。で、だ。その『タワーリング・インフェルノ』の主題歌の日本語盤を唄っていたのが、当時フォークの新星として注目されていた中沢厚子だったのであった。

 おれは乏しい小遣いでモーリン・マクガヴァン版と中沢厚子版を両方とも買い(ドーナツ盤だよ、もちろん。当時は五百円だったと思う)、飽きもせず聴きまくっていた。若い人は信じられないでしょうが、当時の音楽記録媒体は、聴くたびに少しずつ磨耗してゆくのである。“擦り切れるほど聴く”というのは誇張のレトリックではなく、単なる事実の描写だった時代なのだ。

 中沢厚子の特異な透明感のある声は、まだ中学生だったおれにもガツンと来た。地声なのにファルセットのように響くハイトーンなのである。不思議な声だ。かといって、声楽家のようなある種の冷たさがあるわけでもなく、優等生的な印象はあっても厭味がない。伸びやかに澄んでいる。ウェブを漁ってみると、「“おかあさんといっしょ”の歌のお姉さん的イメージもなきにしもあらず」とうまく表現している人がいらした。たしかにそうなのだ。が、伸びやかに澄んだ声の中に、おれにはなにか陰のようなものがちらりと垣間見える。童女のようであり狂女のようでもあるアーティストとしての核の部分を、優等生的な声が覆っている。そんな感じだ。

 その後もラジオで「昭和のサムライたち」(受験生ソングなのである)を聴いたことがあったが、残念ながら、おれがLPレコードをそこそこ買える歳になるころには、中沢厚子は音楽界から姿を消していた。少なくとも、おれに見えるところからは姿を消していた。ずっとあとになってインターネットが普及してから思い出して検索してみても、一九九七年十月五日の日記に書いたように、「新しい情報は見つからず、むかしのラジオ番組だとかコンサート情報にしか中沢厚子の名は見当たらな」かったのである。

 おれはずっと気になっていたのだ。

 それが先日、野尻抱介さんの掲示板でちょっと中沢厚子の名を出したところ、TBSの鈴木順さんが、中沢厚子が活動を再開しているという情報をくださった。鈴木さんも中沢厚子ファンなのだという。たしかに鈴木さんの世代であればジャストミートのはずだ。しかも、鈴木さんは出入りのライブハウスで中沢厚子に紹介してもらい、ご本人からライブの案内をいただく仲だとおっしゃる。いやあ、世間は狭い。というか、インターネットというものの潜在力はすごい。おれが何年もずっと巡回している知り合いの掲示板に、中沢厚子と直接会っている方がいらしたとはね。

 そんな驚きがあったもんだから、ひょっとすると、ブログも増えた今日、中沢厚子の新しい情報があるのではないかと検索してみたら、なんとエレックレコードが復刻をはじめているではないか。知らなかった。中沢厚子もある。買わいでか。

 というわけで、このCDがおれの手元にあるわけなのだ。中沢厚子の声に初めて聴き惚れてから三十年以上を経て、おれは“おれがもう数年早く生まれていたら買っていたにちがいないLPレコード”を、レーザーで信号を読み取る未来の媒体で手に入れたのだった。不思議な気持ちだ。おれはいま“体験し損ねた過去”を、遅ればせながら満喫しているのだ。SFだなあ(強引にそこへ持ってゆくか)。

 ちなみに、これも鈴木順さんに教えていただいたのだが、この復刻版ファーストアルバムは iTunes Music Store でも買える。中沢厚子を知らない方は、ぜひ視聴してみていただきたい。ちょっとほかに類を見ない(聴かない)ワン・アンド・オンリーの声だと思いますよ。



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2006年5月26日 (金)

意外な反響に驚く

 びっくりしたなあ、もう。いや、昨日のこのブログへのアクセスが、にわかに爆裂していたのである。ココログのアクセス解析機能にはたぶん“セッション”なんて概念はないと思うから、単にアクセスされたページ数が“のべ”で出ているだけなのだろうが、昨日のアクセス数はなんと「2130」。このブログとしては異例のことだ。ふだんは、せいぜい六百数十から八百数十あたりを安定的にキープしている程度なのだが。

 二十一日のエントリー「Web 2.0 と人工知能」を、意外と多くの方が面白がってくださったのが主な原因であるようだ。「アンカテ(Uncategorizable Blog)」「404 Blog Not Found」といった、IT系のメジャーどころブログで話題にしてくださったのが大きいだろう。SF者のちょっとしたネタ振りのつもりだったのだが、これくらいビンビン反応があるとネタの振り甲斐があるなあ。ほかにもあちこちでネタをいじくってくださっていて、別の方向への展開や別の角度からの解釈を読んでいると、ウェブという脳の無数のシナプスがパチパチと発火する音が聞こえるかのようだ。それがまたおれというニューロンにフィードバックされ、おれの中でなにかがカチリと繋がる。あたりまえといえばあたりまえだが、なるほど、たしかにブログというやつは、Web 2.0 であるにちがいない。一九九六年からやっていた古き良き「ウェブ日記」の時代とは、ミームの伝播速度があきらかにちがうのを実感した。

 この「[間歇日記]世界Aの始末書」をブログとして再開してからまだ半年にもならないが(それ以前のエントリは、「mixi」で書いていたものをあとからよりぬき転載したのである)、「はてなブックマーク」で五十人以上もユーザを獲得したのは初めてだ。アクセス解析の「リンク元」「http://b.hatena.ne.jp/umedamochio/」なんてのを見つけたときは、思わず荒川イナバウアー状態になってしまった。あ、あのですね、ここはSF系のアホ日記のつもりで、IT系のシリアス部門(?)ではありませんので、みなさま、そのつもりでご愛用いただければさいわいであります。

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2006年5月25日 (木)

バロォーーーム、クロォーーース!

 企業体力はないが優れた技術やサービスを持つ企業と、これというコアコンピタンスを持たないが、とにかく力業の商売だけは得意だという企業とが、買収に対抗する戦略で合併して、「法人バロム1」になるというくだらないことを考えたのだが、これって、昨今あんまり洒落にならないよなあ。

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あ、できた

 「デイトレーダーとナイトライダーくらいちがう」

 おれはナイトライダーのほうが、まだしも好きだけどね。でもまあ、マイケル・ナイトだって財団に雇われてるわけで、あちらの正義の味方は金持ちのサイドビジネス(?)が多いね。バットマンも金持ちだし、ジェフ・トレイシーも金持ちだし。なんか、日本人としては、貧乏人の正義の味方に感情移入しちゃうよなあ。現実的には、正義に味方するなどという非現実的なことをするには、相当な財力が必要であることは事実だとは思うが……。

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2006年5月24日 (水)

『IT失敗学の研究―30のプロジェクト破綻例に学ぶ』(不条理なコンピュータ研究会・著/日経コンピュータ編/日経BP社)

 〈日経コンピュータ〉誌に二〇〇二年から二〇〇五年にかけて連載された「不条理なコンピュータ」を再編集したもの。タイトルどおり、システム構築プロジェクトの失敗例を分析して学ぼうという本である。これがまあ、読んでいるとどんどん暗鬱な気分になってくるのだが、いちいち事例が面白いので、胃のあたりに厭~な感じが募ってはくるものの、読み進めずにはいられない。もし小林泰三林譲治の小説を代作したとすれば、こんな感じになるかもしれない。まさに“逆プロジェクトX”とでも言うべき、不快な事例と的確な分析が目白押しである。

 IT業界というところは、まあ、比較的頭のいい人が多い。合理的な思考ができる人が少なくない。あたりまえだ。が、その“合理的である範囲”が問題なのである。頭のいい人は多いが、異様なほどに視野の狭い人も多い。それらが両立したときの悲劇には、目を覆わんばかりのものがある。そこそこ頭のいい人ばかりが雁首を揃えているというのに、いったい全体、なにがどうしてどうなったら、総体としてこれほど愚かな判断や行動ができるのか、不気味なほどである。みな、それなりに合理的に動いているのだから、問題の根は深い。

 本書で取り上げられている失敗プロジェクトの例は、おなじみ「動かないコンピュータ」どころではないのだ。最初から“動くはずがない”、あるいは“動かす気がない”システムを構築するという怪談ばかりである。思わず大笑いしそうになる箇所がいくつもあるが、笑っている場合ではないのだ。これらの世にも奇妙な物語、「次はあなたの番かもしれません」なのである。

 「IT失敗学」と銘打ってあり、たしかにIT業界固有の現象もあるけれど、本書に紹介されている“失敗”のパターンは、複数の人間が一緒に行う、あらゆる活動の参考になると思う。読んでいる最中、「これじゃあ、まるでガダルカナル戦だなあ」と何度も思っていたら、はたして、巻末の「寄稿編」では、名著『組織の不条理―なぜ企業は日本陸軍の轍を踏みつづけるのか』を書いた菊澤研宗教授が、案の定、ガダルカナルの例を挙げて、これらの不条理なプロジェクトを分析していた。

 これはコンピュータ技術の本じゃなくて、もろに経営の本である。ITの本だからと食わず嫌いをしないで、業界・職種を問わず、人の上に立つ人にこそ、ぜひ読んでほしい本だ。政治家や官僚や公務員にも読んでほしい。日本というのは、前の戦争(「応仁の乱」のことじゃありませんので、京都の人)のときから、ちっとも変わっていないのにちがいない。

 いやしかし、他人の失敗って、どうしてこんなに面白いんでしょ。けけけけけ。けけけけけけけけけけけっ。

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2006年5月23日 (火)

迷惑な「サクサクしっとりチョコ」

 なんか最近、リスカって会社が作ってる「サクサクしっとりチョコ」ってのにハマってしまい、しばしば食ってしまう。近所のディスカウント店でよく安売りしているのだ。安いだけではない。これが妙にうまい。コーン菓子にチョコを染み込ませてあるだけのような感じで、見るからにシンプルな菓子なんだが、これがやめられない止まらない。

 リスカのウェブサイトに行くと、トップページに「大ヒット感謝!」などと書いてある。Google で「サクサクしっとりチョコ」を検索してみると、やっぱりあちこちでハマっている人がいる。リスカなんて、失礼ながら、どう見てもマイナーな会社なんだが、この「サクサクしっとりチョコ」は文句なしの傑作だ。これ作った人は、いまごろ社内で表彰されているのではあるまいか。

 ああ、先日、せっかく体脂肪率が二十パーセントを切ったのに、こんなことをしていてはいかん。ほどほどにしよう。

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2006年5月21日 (日)

Web 2.0 と人工知能

 いわゆる「Web 2.0」なるものに、なーんとなく既視感があるなあと思っていたんだが、おれなりに考えがカタチを取ったので書いてみる。

 昨今の Web 1.0(なんて言いかたは、もちろん 2.0 なる言いかたが出てきてから遡及的に出たものだが)から 2.0 へのシフトの機運は、一九八〇年代の人工知能業界における流行の変転にとても雰囲気が似ているのだ。

 そう、当時は“人工知能業界”としか言いようがないものがあったのである。人工知能の産業化と商業化が一気に進んだのが八〇年代だ。ま、人工知能が商売ネタとして脚光を浴びるようになったわけだ。なんでもかんでもAI、AIと言っていたバブルの時期である。当時ことさらAIアプリケーションなどと看板を掲げていた技術の多くはすっかり“浸透と拡散”が進み、いまではあたりまえの基盤技術としてあちこちに取り入れられていたりする。八〇年代の人工知能業界を思い起こすに、アメリカでは人工知能研究のセールスマン的な役柄を担っていたエドワード・ファイゲンバウムという学者が、日本の第五世代コンピュータ・プロジェクトなどを挙げて、アメリカが遅れを取ってはならぬとばかりに過度に日本の脅威を半ば政治的に煽り、日本は日本で、ほら、ファイゲンバウムもあんなに熱心に布教しているんだから、とにかく時代は人工知能なのだとばかりに、奇妙に盛り上がっていた。日米は、お互いの誇張された盛り上がりを口実に盛り上がり、それがさらにお互いを盛り上げていたわけだから、まさにハウリングを起こしていたようなものだ。そんな作られたバブルを、まともな研究者たちは、冷笑的に迷惑がったり、うまく利用して予算を獲得したりして、けっこう冷静に捌いていたように思える。

 まあ、そういう時代の空気はともかくとして、いま進行中の Web 1.0 から Web 2.0 へのシフトは、八〇年代後半に起こった、記号論理の操作によるルールベースの人工知能から、エージェントの集合体の挙動としての人工知能への流行のシフトにとてもよく似ている。ウェブの総体をある種のAIと考えた場合(そいつがなにを“考えて”いるのだかわからないが)、その設計思想がルールベースの control 指向からエージェントベースの cooperation 指向に移行しようとしているのが、まさに Web 1.0 から Web 2.0 へのシフトなのではないだろうか。少なくともおれは、そんなふうにいまの状況を捉えている。

 “シフト”というのは適切でないかもしれない。人工知能の世界だって、自律エージェント万々歳でルールベースは古くて使いものにならないというわけでもないだろう。流行の重点が移っただけだ。ルールベースは柔軟性に欠け、ふるまいが“硬い”が、なにをどうしてそういう推論結果が出てきたかというのをトレースしやすい点では、ある意味で信頼できる。エージェント群が総体として出した推論結果など、怖くて信用できないという考えかたもある。時に魔法のように柔軟でインテリジェントなふるまいを見せるが、どうしてそんな推論結果が出てくるのか、ふるまいが非線形なため、“人間のように賢く見えるが、人間程度にしか信頼できない”ということにもなるわけだ。両者のよいところが、それぞれに適材適所で使われているのが、いまの実用ベースの産業利用の実態だろう。おそらく、人間の脳だって、非常に柔軟性の高いエージェント群の非線形なふるまいを最大限に利用する部分と、フリップフロップに近いほどに一意性の高い情報の“整流”を行なう部分(「おばあちゃん細胞」とか?)とが混在して、ダイナミックな動きをしているのだろうと思う。

 Web 2.0 の台頭をこのようなアナロジーとして捉えるならば、Web 1.0 が完全に滅びてしまうわけではないのは自明のことだ。むしろ、Web 1.0 と Web 2.0 とは、それぞれの得意技を活かして共存してゆくことになるのだろう。

 まあ、SF的に、ちょっとロングショットの想像をしてみるとするなら、Web 2.0 的なもののふるまいを研究する中から、遠い将来には、たとえば社会性昆虫の群体のふるまいを制御するかのようなテクノロジーのパラダイムが出てくるかもしれない。それは、ナノマシンの群体を制御して所与の出力を得なければならないような場面において、大いに役立ってくるのかもしれない。ま、これはちょっとSF的すぎるかな? そういうテクノロジーは、現在とはまったくちがう意味で、将来“ソーシャル・エンジニアリング”とでも呼ばれることになるのかもしれない。



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堀北真希の七瀬が観たい!

 ドラマ化された『クロサギ』を毎週観ていて、このところにわかに堀北真希にハマりつつある。どこか歪な女性に惹かれることの多いおれにしては珍しく正統派美少女を高く評価してしまい、内心少しくやしいのだけれども、妙に陰のあるところが『クロサギ』ではよく出ていて、たいへんよろしい。三十くらいになるころが楽しみですなあ。

 で、とうとう気づいてしまったのだった。多くのSFファンが頭の中で無意識にキャスティングしてしまうのが癖になっているアレだ。七瀬だ。相川でも星井でもない。いま、火田七瀬が演れるのは、堀北真希をおいてほかにない。テレパスの顔してるよ、あのコは! テレビドラマでも映画でもいいから、どなたかまた映像化してくださらぬか? そうさなあ、凛とした怖い七瀬の見せ場が多い『七瀬ふたたび』がいいな。多岐川裕美水野真紀をも凌ぐ七瀬になるにちがいない(渡辺由紀って人も演ったそうだが、おれは観てない)。『富豪刑事』がテレビドラマ化され、『時をかける少女』がアニメ映画になり、「日本以外全部沈没」までが映画化されるという、この何度めかの筒井康隆ブームに、いままた新しい七瀬を創らずしてどうする!? 千載一遇のチャンスだ。

 おれ、本気で言ってますからね。いまやるんなら、堀北真希ですからねっ!



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『ダーティペアの大征服―ダーティペア・シリーズ〈6〉』(高千穂遙/早川書房)

 おなじみ《ダーティペア》なんだけれども、なぜか“剣と魔法”のヒロイック・ファンタジーなんである。大陸をまるごとひとつヒロイック・ファンタジーの世界に仕立て上げて大人気のテーマパーク〈バーバリアン・エイジ〉が舞台であるからして、もう、なんでもありなんである。WWWAの中央コンピュータの指名で、なにがなんだかわからないまま〈バーバリアン・エイジ〉に送り込まれるのは、もちろんダーティペア。なんでも、〈バーバリアン・エイジ〉の運営システムに対する破壊工作が行なわれているらしい。遊園地(遊園大陸?)のシステムが破壊されつつあるのなら、システムの外から調べればよさそうなものだが、それでは面白くない。このテーマパークの“ノリ”に従い、きちんと客として潜入し、犯罪組織に繋がる不審者を炙り出さねばならないのである。というわけで、ケイは戦士、ユリは魔法少女のキャラを選択して、捜査なんだかゲームなんだか黒沢映画なんだか○○○・○ー○なんだかよくわからない大冒険の幕が上がるのであった……。

 主人公がヴァーチャル・リアリティーの世界に入り込んでこうしたなんでもありの展開になることはよくあるが、ハイテクテーマパークに強引に放り込まれるというのは、意外とありそうでなかった設定なのではあるまいか。というか、ふつう、いきなりそんな無茶な設定を提示したら「あほか」と言われてしまうはずだけれども、《ダーティペア》であれば、「まあ、そういう事件があってもよかろう」という気になるから、歴史のあるシリーズものというのは強い。

 これはまあそういう世界であるからして、ルールに則り経験値を上げてゆかないと、ろくな捜査もできないわけである。ゲームのルールを学ぶためのスタート地点に当たる都市の名前が〈ダチカン〉(高千穂遙は名古屋出身である点に注意)というあたりから、ああ、これはひょっとすると田中啓文っぽい《ダーティペア》なのかもしれんと腹を括ったら、はたして、そのように展開してゆくではないか。いつもより露出多めのコスチュームのケイが大剣を振りまわし、くノ一に変身した魔法少女のユリが怪しげな名前の忍術を繰り出して、火を吐く巨大ドラゴンと闘うに至っては、おれの頭の中で“不信の停止”などという文学用語の鎖がぷちーんと音を立てて弾け跳んだ。作中のケイの言葉を借りれば、「ああ、なりきっているやつは強い」というやつだ。小難しいことを考えながら読むべき本と、そうでない本というものがある。なんにせよ、世の中、楽しんだもん勝ちだ。あ、いかん、文体がケイみたいになっているぞ。

 そして、そのまま口を開けて読んでいたら、最後の最後でとんでもないことが――!! こ、こんなことをして、どこかからマシンガンで撃たれたりしないのかと思いつつ、大爆笑である。ま、まさか、この大ネタ(?)をやるためにはどのような話が必要かと逆に考えていって、この「ダーティペア・イン・ソード・アンド・ソーサリー!?」(折り返しアオリより)の設定を得たのではあるまいなー? だったら、やっぱり田中啓文ではないか(笑)。

 いや、おそれいりました。なーんにも考えずにつるつる読める、ストレス解消に持ってこいの一冊。もっとも、“なりきれない”読者は、逆にストレスが溜まるかもしれないけど……。

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2006年5月20日 (土)

「『フェミニズム』ってなんですか?」

 『内田樹の研究室』ブログ「エビちゃん的クライシス」(2006年05月20日)を読んで、内田氏が驚いているということにおれが驚いた。おれも最初のころはこういう現象にいちいち驚いていたのだが、最近は「そういうものなのだ」と思うようにしているからである。

 この「[間歇日記]世界Aの始末書」を長らく読んでくださっている方であれば、あの「月をなめるな」や、「『ヨクネン』って何のことですか」、あるいは「水をなめるな」といった話をご記憶であろう。有名女子大で「現代思想・現代文化論」を学ぶ学生が「『フェミニズム』ってなんですか?」という根源的な問い(?)をあっけらかんと発するという事態は、内田氏が憂えているような、フェミニズムのもたらした最良の知的資産の継承云々といった限定的な問題ではないにちがいない。これは「月をなめるな」と同次元の現象だろう。そういう意味では、内田氏の心配は杞憂だと思われる。“その程度の現象はあちこちで常態になっているのだから、ことさらそのことだけを心配するには及ばない”というのを“杞憂”と呼ぶのが日本語として正しいかどうかを度外視すればだが……。

 これがなにかの危機なのかどうかすら、おれは最近よくわからなくなっている。いいことなのか、悪いことなのかすらわからないのだ。ただただ、個人的には“寂しいこと”だとは感じる。その寂しさは、たとえば、むかしは“ヒット曲”と呼ばれていた歌謡曲を誰もが口ずさんでいたのに、いまでは何百万枚売れようが知らない人はまったく知らないのがあたりまえになっているのを痛感するときに感じる寂しさに少し似ている。

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2006年5月17日 (水)

最優秀賞をもらったら嬉しいのかな?

 「妖怪そっくりコンテスト」って、あのねえ……。まあ、たしかに似てる人はいるよな。鬼太郎に似てる子供はあんまりいないが、悪魔くんに似ている子供はたまに見かけるし。子泣き爺い砂かけ婆あに似ている人というのは容易に想像がつくが、ぬりかべ一反木綿に似ている人ってのは、いったいどういう人なんだ? あっ。そういえば、一反木綿に似てる人がいた! アンガールズの山根。そう思って見ると、似てるよね?

 「自薦他薦は問いません。ただし、他薦の場合は必ず本人の承諾が必要です」って、そりゃそうだわな。ある日突然電話がかかってきて、「おめでとうございます! あなたはぬらりひょんのそっくりさんとして最優秀賞に選ばれました!」とか言われても……。十年後に『徹子の部屋』かなにかで、「妹が内緒でコンテストに応募しちゃったのがデビューのきっかけでした。水着審査があるなんて言われて、もうびっくりでした」とか言ってたりしてな。

 おれは妖怪に似ていないので、勝手に応募しないように。おれの知っている人でいちばん妖怪っぽい人に牧野修さんという人がいるのだが、では、どの妖怪に似ているのかと言われると、これがピンと来ない。でも、水木しげるの世界にぽつんとひとり佇んでいても、まったく違和感がないと思う。牧野さんがもっと肥っていたら、油すましに似てくるにちがいないんだけどなあ。

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2006年5月16日 (火)

新聞も認める超能力者

旧エルビス宅、ユリ・ゲラーさんら1億円で落札 (asahi.com)
http://www.asahi.com/international/update/0516/004.html

 4月から米インターネット競売大手のイーベイで売りに出されていた故エルビス・プレスリーの旧宅が、「スプーン曲げ」で知られる英国在住の超能力者ユリ・ゲラーさんらによって落札されたことが15日、明らかになった。英メディアが報じたもので、落札額は90万5100ドル(約1億円)。ゲラーさんはこの家を修復した上、病気がちな子供たちのために開放し、いずれは博物館にする考えという。(時事)

 いや、ユリ・ゲラーはまあいいとしようや。天下の朝日新聞が時事通信の配信した記事をろくにチェックもしないで載せているのはいかがなものか。チェックをしていないとしか思えない。いくらなんでも、「超能力者ユリ・ゲラーさん」はまずいでしょう、やっぱり。こんなふうにさらりと書かれると、朝日新聞は「超能力者」というものが存在することを、当然の前提としているかのように見えてしまう。それとも、これって、職業のつもりなのかな? 「ユリ・ゲラーさん(超能力業)」なら、まだ許せるか。なんか、エスパー伊東さんみたいだな。ま、彼は「高能力パフォーマー」なんだけど。

 それはともかく、やはり新聞としては、「自称超能力者のユリ・ゲラーさん」とでも書くべきではなかろうか? それだとユリ・ゲラーを非難しているように読めてしまうか。ニュートラルな記事にするのなら、『いわゆる「スプーン曲げ」で知られる英国在住のユリ・ゲラーさん』がベストだろう。

 そもそも“超能力者”なんだったら、オークションに参加するのは反則(?)なんじゃないの? ユリ・ゲラーさんは、たしか透視もできるはず(自己申告)じゃなかったっけ? 予知はできるって言ってたかな? よく憶えてない。

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『グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する』(佐々木俊尚/文春新書)

 Google という特殊な企業を、さまざまな角度から一般向けに解説した好著。出版のタイミングが重なったということもあって、『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(梅田望夫/ちくま新書)とセットで語られることが多いようだが、『ウェブ進化論』の論旨が一般読者にどの程度伝わるかは疑問なのに対して、本書はあまりITに馴染みのない人にもたいへん読みやすく、ビジネスの上で具体的に得るところが大きいと思う。さすが元新聞記者だけあって、構成や話の進めかたに藝がある。「グーグルって名前は知っているんだが、なにをそんなに騒いでいるのだ? なにがどうすごいというのだ? ただの検索エンジン屋じゃないのか?」と首を傾げている中小企業の経営者さんなどに、とくにおすすめ。『ウェブ進化論』が若者へのアジテーションなら、本書は万人に向けた平易な解説・分析であり、また警鐘でもある。

 SFファン的には、Google をフィリップ・K・ディック“ユービック”にもなぞらえてたりしているあたりが、なかなか面白い。たしかに、Google Earth なんかで遊んでいると、そんな気にもなってきますな。

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2006年5月15日 (月)

Web2.0 とSF

Web 2.0 is Made of People! (Ross Mayfield's Weblog September 26, 2005)
http://ross.typepad.com/blog/2005/09/web_20_is_made_.html

 ぎゃははは、うまいっ! 「!」が効いてますね、「!」が。

 こういうのを見つけると、やっぱり『ソイレント・グリーン』は、ネタばらししてもいいくらいの基礎教養なんだなと安心するなあ。

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2006年5月14日 (日)

それはちがう、それは

『明日の記憶』って、映画にもなって売れてるんだってね」
「へ? そうなの? ずいぶんむかしに読んだんだけど……」
「……?」
大むかしに宇宙人が地球にやってきていた証拠がいっぱい残ってるっていう本でしょ?」
「…………」

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職業選択の自由とフィクション

「海猿」効果? 海上保安学校の受験者、過去最多に (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0514/TKY200605130382.html

 海上保安庁が先月、海上保安官を養成する海上保安学校(10月入校)の受験者を募集したところ、過去最高の5467人の応募があった。採用は例年通り100人程度の予定で狭き門となっている。テレビドラマ「海猿」に続き、公開中の映画「LIMIT OF LOVE 海猿」がヒット中で、海保は海上保安官が主人公で活躍する「海猿」がイメージアップにつながっている、とみている。

 『海猿』効果ねえ。単純だなあという気もせんではないが、べつにまあ、なにがきっかけであろうと、進むべき道が見えたというんなら、それはそれで個々人の人生にとってはいいことだと思うね。『ペリー・メイスン』がきっかけで弁護士になって日々社会正義のために闘っている人もあちこちにいるはずだし、『ブラック・ジャック』がきっかけで医者になって日々人命を救っている人だってあちこちにいるはずだし、『仮面ライダー』がきっかけで仮面ライダーになって人間の自由のために闘っている人だってあちこちにいるはずだ。

 フィクションってのは、こういうカタチでもリアルワールドに影響を及ぼしている。そうですなあ、海上保安官もかっこいいけど、いまはやっぱり、小児科医とか産婦人科医とか脳外科医とかが活躍する映画やドラマが出てきてバランスを取ってもらいませんとなあ。

 『クロサギ』効果で詐欺師が激増――なんてことにはならないでほしいものだ。



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『ソイレント・グリーン 特別版』(監督:リチャード・フライシャー/出演:チャールトン・ヘストン、エドワード・G・ロビンソン/ワーナー・ホーム・ビデオ)

 おれたち以上の年代のSFファン・映画ファンにとっては、ほとんど基礎教養となっている有名な古典だから、人と話しているときなど、ついついネタばらしという意識すらなく話題にしたりするのだが(「ロミオとジュリエットって最後は死んじゃうんだって」をネタばらしとは言わんでしょう?)、三十三年前の作品ともなると、古すぎて知らない若い人も増えているだろうと思うので、やっぱりこういう場所ではネタばらしをしないでおこう。一応、ミステリ仕立ての映画だから、観たことがない人に気を遣うのだ。『アクロイド殺し』でも『オリエント急行殺人事件』でも、不特定多数向けの媒体ではネタばらししちゃいかんのかなあと悩んじゃうことありますよね。万人が共有する知識などというものがなくなってきた時代において、どのくらい人口に膾炙すればネタばらししてもいいものなのだろうねえ? 「ねえ、あの赤穂浪士の討ち入りって、どうなるのかなあー。“成功”すると思う?」って話を聞いてからというもの、ほんとに悩ましく思っている。
 
 それはともかく、こいつを観るのは中学一、二年のとき以来だけど、いま観てもなかなか面白いね。この作品が提起している問題(人口問題と倫理的問題)は、製作当時からまったく変わらずわれわれの前に存在するからだ。人口問題などは、むしろずっと深刻になっている。少年時代にテレビで観て記憶に残らなかった細かいところが、いま大人の眼で観るとよくわかるから面白いということもあるし、字幕なしで観ても差し支えない程度には英語がわかるようになっているからということもある。単に懐かしいというのも、もちろんある。

 ハリイ・ハリスンの『人間がいっぱい』がこの映画の原作なのだが、知ってる人は知ってるように、相当ちがう話である。人口問題に正面から切り込んだ姿勢やベースになる設定は共通している。まあ、すでに古本でしか手に入らないし、よほどのSFファンであれば読んでみても損はないという程度の作品。

 映画としても格別出来がいいわけではない。でも、おれは個人的には思い入れがあるのである。忘れもしない、これはおれが生まれて初めて涙を流した映画なのだ。観た方は、「あれのどこで泣くんだ?」とお思いになるかもしれないが、泣いちゃったものはしようがない。ほれ、あの安楽死センターで『田園』が流れるところですよ。失われた過去の地球の美しい自然の光景を観ながら死にゆくエドワード・G・ロビンソンと、それを前に涙するチャールトン・ヘストンの名演に打たれたのだ。このDVDに「音声特典」として付いているリチャード・フライシャー監督の解説によると、このシーンにはチャールトン・ヘストン自身がたいへん感動しており、また、エドワード・G・ロビンソンの最後の映画出演(なんと、百一本め!)であるということもあって、ヘストンは“ほんとうの涙”を流していたのだそうだ。物語の中で彼が演じる主人公の、哀しみとないまぜになった感動と、去りゆく老俳優を見送る現実の彼の感慨とが重なり合った涙であったわけである。そりゃ知らなかったなあ。こういうことを知れただけでも、いまさらの古典を買って観た甲斐はあったというものだ。

 「売切れ御免! スーパー・ハリウッド・プライス 1枚¥980(税込)」などという帯が付いている「特別版」なので、廉価版の例に漏れず、なんの解説冊子も付いていない、ディスクだけのシンプルな商品だが、映像特典として「メイキング(約10分)」「エドワード・G・ロビンソン101作 記念映像(約5分)」「オリジナル劇場予告編」が、音声特典としては「監督リチャード・フライシャー他による音声解説」(“他”ってのは、ヒロイン格で出演したリー・テイラー・ヤング)が付いている。これで九百八十円なら充分すぎるほどだ。

 ちなみに、廉価版でないバージョンもまだ並行して売られているわけだが、「特別版」の三倍以上の価格なんだから、これはまあコレクター向けでしょうね。



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2006年5月13日 (土)

遊園地化する仮想地球

Google moves into virtual worlds (BUSINESS 2.0 > CNN Money.com)
http://money.cnn.com/2006/05/11/technology/business2_futureboy_0511/index.htm

The notion that you can create objects and buildings and place them in a virtual world makes Google Earth sounds less like a mapping tool and more like a metaverse. What's a metaverse? Science fiction writer Neal Stephenson introduced the term in his seminal 1992 novel, Snow Crash. The metaverse was Stephenson's name for a virtual world where his characters play and do business. It was a black ball 1.6 times the size of Earth, with a giant street running around its equator.
In Stephenson's novel, millions of users uploaded customized "avatars," or virtual personalities, and strolled the street, entering shops and exclusive nightclubs, conversing and trading with the metaverse's other denizens. It was, in effect, a 3-D version of the web.

(中略)

Where will it end? Google Earth general manager John Hanke has said that Google Earth was partly inspired by Snow Crash's metaverse. At a recent Silicon Valley conference, he described it as a "3-D virtual world."

 BUSINESS 2.0 ってのはけっこうお茶目な媒体で、たまにニヤリとさせられる。こんなところでニール・スティーヴンスンの名にお目にかかろうとは。"Google Earth was partly inspired by Snow Crash's metaverse"ってのはホントかねえ? まあ、Google の人が言ってるんだから、たぶんそうなんだろう。

 百年もしないうちに、Google Earth はメタヴァースどころか、ダイアスパーになってたりしてね。

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ほんとにロボットだとしか思えない

男児投げ落とし、「自殺できず死刑になるため」と供述 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0511/TKY200605110423.html

 川崎市多摩区のマンション15階から小3男児(当時9)を投げ落としたとして殺人容疑で再逮捕された同市麻生区、無職今井健詞容疑者(41)=清掃作業員の女性に対する殺人未遂罪で起訴=が神奈川県警の調べに対し「死にたかったが、自殺できなかった。人を殺して死刑になりたかった」と供述していることがわかった。県警は今井容疑者が確実に死ぬための手段として一連の事件を起こしたとみている。

 以前にこの男について書いたエントリーへのコメントで、この男はロボット工学三原則がねじれてしまったロボットなのではないかといった戯言を交わしていたのだが、ほんとにそうだったとは……。上の記事のとおりだとしたら、やっぱり、第三原則(自己を護らなければならない)が第一原則(人間に危害を加えてはならない)に優先しているのである。となると、この男に襲われそうになったときには、どう対処すべきか? 第二原則(人間の命令に従わなくてはならない)がうまく利用できそうだが……。

 いろいろ試してみないと、このロボット男の三原則の“壊れかた”が完全にはわからないので、あくまでこれは賭けだが、この男に襲われそうになったら、「おれを羽交い絞めにしたままビルから飛び降りて、おれを殺せ!」と命令してみるといいかもしれない。おれの命令にしたがっておれを殺すことに関しては、第二原則が第一原則に優先するのでなんの問題もないが、第一原則に優先する第二原則に従って命令を実行しようとすると第三原則に抵触するため、“命令の一部だけを実行するのは命令を遂行していないのと等価である”といった、いかにも機械らしいフリップフロップ思考を取るとすれば、この男の思考回路は論理のロックによって停止するのではあるまいか?

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2006年5月12日 (金)

おれ、このコのなんなのサ?

 最近、「同じ職場で働いていた洋子です。」というサブジェクトのスパムがよく来る。おおかた出会い系サイトかなにかの宣伝なのだろうが、わかっちゃいないねえ。こんな凡庸なタイトルでは、ごみ箱に直行だ。せめて「同じ職場で働いていた陽子です。」くらいにすれば、たまたまスーパーカミオカンデで仕事をしている人に届けば「えっ」と思って開いて読むかもしれない。「同じ職場で働いていた中性子です。」などというメールを原発職員が受ければ、ちょっと開けてみようと思うだろう。「同じ職場で働いていた餃子です。」もいいな。

「同じ職場で働いていた孔子です。」 どこで働いてたんだ、どこで?
「同じ職場で働いていた弟子です。」 そりゃあ、弟子だったら、そういうこともあったろう。
「同じ職場で働いていた椅子です。」 おれは机だったのか。父さんはテーブルで、姉さんは卓袱台だった。イェーイ。
「同じ職場で働いていた蛭子です。」 ああ、おひさしぶり、稗田礼二郎です。“えびす”さんだったら、人ちがいです。
「同じ職場で働いていた萬子です。」「同じ職場で働いていた筒子です。」「同じ職場で働いていた索子です。」 おれは麻雀知らないってば。
「同じ職場で働いていた水鏡子です。」 これがいちばん開いてしまいそうなメールだが、同じ雑誌に書いたことがあるというのは、同じ職場で働いていたことになるのだろうか?

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2006年5月10日 (水)

水底二万ヤード

池に落ちたゴルフボール、潜水服着て盗む 容疑の男逮捕 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0509/SEB200605090001.html

 山口県警美祢署は9日、ウエットスーツと空気ボンベを身につけてゴルフ場の池に潜りゴルフボールを盗んだとして、同県下関市豊浦町室津下の靴販売業広田才麿容疑者(51)を窃盗の疑いで逮捕した。容疑を認めているという。
 調べでは、広田容疑者は9日午前0時半ごろ、同県美祢市於福町上のゴルフ場に侵入し、コース内の池(深さ1~2メートル)に潜り、ゴルフボール計651個(時価3万2550円相当)を盗んだ疑い。付近を巡回中の署員がゴルフ場から車で出てきた広田容疑者に職務質問し、車内に大量のゴルフボールがあるのを見つけた。「自分が使うつもりだった」と供述しているという。同署では転売する目的があったとみている。
 池に落ちて拾われなかったボールの所有権はプレーヤーが放棄したとみなされ、ゴルフ場に移る。

 ご苦労さまと言おうかなんと言おうか、こんなマンガみたいなことを実行するやつがいるんだねえ。犯罪は犯罪なのだろうけど、なんか努力を買いたい気もするよな。

 考えれば考えるほど、謎が多い。まず、この男は潜水用具を最初から持っていたんでしょうな? この犯行のためにわざわざ道具を揃えたんだったら、元が取れるとは思えない。池の底に沈んでいるたくさんの五十円玉を、これだけの手間をかけて拾い集めたのと同じってことだよねえ。何時間くらいかかったのだろう? 小さな池の底にびっしりと沈んでいるのなら、あんまり探す手間は要らないとは思うが、一分に十個拾ったとしても、一時間はかかるわなあ。ましてや水中でのことだ。想像以上の重労働なんじゃなかろうか? この六百五十一個のボールは、今回の犯行一回で拾い集めたのだろうか? 何度も通ってきて、車の中に溜めておいたのだろうか? 一回でこれだけの収獲があったとしたら、時給三万二千五百五十円だ。そう考えれば、ワリのいいバイトではある。

 これだけの根性と技術があるのなら、忍び込んで盗むなんてことをしないで、ゴルフ場と正式に契約し、一個二十五円でゴルフ場に買い取ってもらう商売としてやればいいのに。一時間に一万六千二百七十五円が堂々ともらえるうえ、また池の底にボールが溜まったら、その都度継続的に収入になる。こんなもの好きもあんまりいないだろうから、商売敵もそう簡単には出現しないだろう。有名プレーヤーの銘の入ったボールなら、オークションなどで売ってもいいだろう。もっとも、六百個ほどもボールが溜まるのに何日くらいかかるかが問題だが……。乱獲(?)すると、ボールがすぐ絶滅危惧状態になってしまう。

 「深さ1~2メートル」の池ってのも腑に落ちない。だったら、空気ボンベなどというたいそうなギアを用意しなくても、シュノーケルと水中眼鏡だけでも充分ボールを集められそうなものだ。少し時間はかかるかもしれないが、原価が安上がりである。深夜とはいえ、万一、人がやって来たときに潜ってやりすごそうと思っていたのかな。

 なんにせよ、あちこちで模倣犯が出ないか、ちょっと興味がある。アホらしくて模倣したくないって? だよなあ、おれも模倣したくない。模倣犯を防ぐには、ゴルフ場の池をうーんと深くしておけばよい。水深一万メートルくらいあったら、意外性があって面白いだろう。潜れども潜れどもボールが現れない。深く潜りすぎると、帰路の空気がなくなって、途中で溺れ死ぬ。これは効果的な防犯にちがいない。

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2006年5月 9日 (火)

『がんばらんば』(さだまさし/フォア・レコード)

 NHK『みんなのうた』の2006年4月・5月の新曲として流れている、さだまさしのヒップホップ。歌詞は全部長崎弁。さだまさしの長崎弁のラップなどという愉快なものが聴ける。「どんげんね 来られんごったね 待っとっばってんあんまいやったらちゃんぽん喰うて寝(ぬ)っ」って、そうか、大阪では必ず「屁ぇこいて寝る」もんなんだが、長崎ではちゃんぽん食って寝るのか。長崎弁ってのは、東京生まれ京都育ちのおれにもなーんとなくわかるようなわからんような絶妙なところがいい。ドイツ人のラップを聴いているオランダ人ってのは、こんな心境かも? 歌詞はちゃんと書いてあり、文字で読むと、かなりわかったような気になる。さらに「日本語訳」(そう書いてあるんだってば)を読むと、完全にわかる(あたりまえだ)。それにしても、長崎弁ってのはラップ向きだねえ。京都弁では、たぶんラップにならんよなあ。

 「がんばらんば 何でんかんでん がんばらんば」というリフレインの部分がやたら耳につき、頭の中で回り続ける。回り続けているのを聴いているうち、ひょっとして、ユンケル黄帝液のむかしのCMで流行語(流行歌?)にもなった「ユンケルンバ デ ガンバルンバ」というフレーズは、タモリ本人が作ったのではないかと思い当たった。タモリは九州人だし、福岡と長崎のちがいはあるにしても、「ガンバルンバ」といったフレーズを思いつきやすいのではあるまいか? どうなんだろね?

 これが千円以上したら買わんと思うが、五百円ってんだから買っちゃうよね。まあ、なんとなく元気が出る愉快な曲だから、健康ドリンクのつもりでいかが? ユンケルは少なくとも千円以上のやつでないと、効いた気がしないしね。



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2006年5月 8日 (月)

これはいい! 「伊東四朗の歌謡曲100プラス」

 どうも最近GyaOの宣伝をしているかのような日記でアレなんだが、テレビの視聴時間が減り、GyaOの視聴時間が増えているのは厳然たる事実なのである。GyaO以外にも、ネットの番組を観ることが多い。ここ一年ばかりのあいだに、無料で観られるコンテンツの幅がぐんと広がったというのが実感だ。

 で、連休中、酒食らいながら涙をちょちょぎらせて一緒に唄ってたりした(酔っ払いめ)のが、「伊東四朗の歌謡曲100プラス」である。伊東四朗・木の実ナナ・南こうせつ・片岡鶴太郎・清水ミチコ・小西良太郎という豪華メンバーが、カフェバーに集まって昭和の歌謡曲を百曲、あーでもないこーでもないと駄弁ったり唄ったりしながら選んでゆくというだけのもんなんだが、まるで彼らのカラオケパーティーに参加しているかのように楽しい。ギターを取り出した南こうせつが、生「神田川」(つっても、こっちはネットで観てるわけだが)を披露したり、おもむろにピアノを弾きはじめた清水ミチコが生「卒業写真」(つっても、こっちはネットで観てるわけだが)を熱唱したりする。まあ、少なくとも三十代後半以上の年齢層でないと楽しめないだろうけどね。おれより二歳上の清水ミチコ(一九六○年生まれ)がメンバーの中ではいちばん若いので、おれの年齢では想定視聴者より少し若いのかもしれないのだが、おれは幼いころ近所に住んでいた祖母や伯母に古い歌謡曲をけっこう仕込まれている。母親が内職しながら小林旭やら美空ひばりやら松尾和子やらなにやらを聴いているのをBGMに育った。だもんだから、おれにはこのメンバーの駄弁りがたいへん楽しく懐かしく思えるのである。いやホント、歌謡曲好きにはたまらない番組ですよ、これは。

 こういうのはテレビでは難しいだろうし、テレビでやるべきものでもないよね。視聴者それぞれが、都合のよい時間に勝手にオンデマンドでゆっくりと寛いで視聴するものだ。しかも、この番組は内容が内容だけに、USENの元々の本業そのものなのである。惜しむらくは、この番組をほんとうに楽しめる伊東四朗くらいの年齢層の人は、まだまだ日常的にGyaOなど視聴していないのではないかと思われる点なのだが、だからこそこういうコンテンツがどんどん提供されるべきだとも言える。おれは身体が弱ってきた年寄りこそがネット社会の恩恵を受けられるようにすべきだと思っている。USENにしてみれば、利用者の年齢層を広げようという当然の動機からこういう番組を企画するのだろうが、ネット社会全体の発展にとっても、たいへんよいことである。婆さんが生きてたら、酒飲みながら(婆さんは飲まなかったが)一緒に観たかったと心から思ったね。

 伊東四朗くらいの歳のお父様・お母様をお持ちの方は、インターネットでこんなのやってるよと教えてあげよう。なに? うちのオヤジはパソコンが使えない? じゃあ、これを機会にプレゼントして、GyaOの観かただけでも教えてあげてはいかがだろうか。数か月後、田舎の親父がやたら最新の洋楽に詳しくなっていた――なんてことになったとしても、当局は一切関知しないから、そのつもりで。成功を祈る!

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2006年5月 7日 (日)

『クロサギ(4)~(6)』(黒丸・[原案]夏原武/ヤングサンデーコミックス)

 三巻ずつまとめ読みしているのだが、四巻の「共済組合詐欺」あたりから俄然面白くなってきた。エンタテインメント性の高い大がかりな詐欺をネタに一本のドラマを組み上げるには、連載四、五回を費やす分量が必要なようだ。二巻あたりからはじまった“小ネタ(連載三回)二本で大ネタ(連載四、五回)一本を挟むのを繰り返す”というパターンの調子が掴めてきたのだろう。四巻では、黒崎を執拗に追うキャリア刑事・神志名の過去があきらかになる。どうやら、『クロサギ』の主要キャラクターはみな、人生のどこかで詐欺というものに大きな影響を受けているという点で共通しており、詐欺に対峙するカタチがそれぞれ異なるためにすれちがうという構造が見えてきた。

 五巻のほぼ半分を占める「ODA還流資金詐欺」などは、じつに大がかりで面白かった。丸々一巻ぶん充ててもよかったくらいだ。黒崎のライバルである大企業専門詐欺師・白石も絡んできて、いかにもドラマ向きである。テレビドラマがどういうふうに料理するのか楽しみだ。これは、山崎努クラスの大物俳優を数人は配して、二時間くらいのスペシャルにしてほしいなあ。六巻の「フランチャイズ・チェーン開業詐欺」は、黒崎の父親を破滅させ家庭を崩壊させた詐欺であり、黒崎は今回の事件を通じて親の仇の当の詐欺師・御木本へと通じる糸をたどり、幹となる物語が大きく展開する。

 以前、『クロサギ』と手塚治虫の『七色いんこ』との類似点を挙げたが、どうも六巻あたりまで読んでくると、平成の『銭ゲバ』(ジョージ秋山)という感じも受けないではない。黒崎は何十億という金を平気で騙し取る(騙し取り返す)くせに、金そのものへの執着はまったくといっていいほどないのが蒲郡風太郎と大きくちがうところだが、憎んでいる対象がじつは“銭”ではないというところには、共通した匂いがある。もしかすると『クロサギ』は、“この社会そのものが、合法的な巨大詐欺システムである”というところにまで斬り込んでゆこうとしているのかもしれない。

 六巻には、黒崎があのボロアパートの大家になるに至った小エピソード(むろん、詐欺絡みだ)が外伝として収められており、巻末の「シロサギ・データ・ファイル」では特別編として「おれおれ詐欺」を取り上げている。おれおれ詐欺を本篇で取り上げないのは、「詐欺としてはあまりにも最低の詐欺であり、黒崎が喰うに値しない詐欺である」からなのだそうだ。まあ、そうだよなあ、みみっちすぎて、マンガとしてのエンタテインメント性に欠けるもんな。






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検索フレーズにお答え(?)する

 以前にも何度かネタにしたが、このブログを検索で見つける来訪者が用いた検索語や検索フレーズを見ていると、しばしば「よくこんなことを検索するなあ」と感心したり仰天したりする。

 さっき、“思わず答えてしまった検索フレーズ”があった。え? 意味がわからん? こういうやつだ――

「片桐はいり 似ている 怪獣」

 たしかに、以前「片桐はいり」という名を書いたことがあるし、「怪獣」の話もしょっちゅうしているから、このブログがヒットしても不思議はない。だが、「片桐はいりに似ている怪獣」について書いたことはないのだよなあ。きっとこの検索をした人は、喉元まで出かかっているのに思い出せず、気持ちが悪くて調べているのだろう。よろしい、答えてあげよう。おれにはすぐにわかった。

 

← それは「ダダ」だ。

 あなたが探しているのは、絶対これのことだと思う。ほかに考えられない。この検索をしたあなたがもう一度来るかどうかわからないが、すっきりしましたか?

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2006年5月 6日 (土)

洞口依子をひさびさに観る

 『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(監督:黒沢清/1985)なんて懐かしいものをGyaOでやってたので(6月5日正午まで)、十数年ぶりくらいで観てしまう。まったくGyaOってのは、中年の映画好きにとっては時間喰いですな。いま観ると、なんとも空疎な映画だ。空疎だから駄作ってんじゃなくて、あの時代がそもそも“空疎で満ち足りていた”ような時代だったんだから、よく時代を映していると言える。そうだよなあ、八十年代の大学ってのは、ホント、あんな感じでしたなあ。洞口依子のデビュー作で、まあ、若いころの洞口依子が観たくなったというのもある。伊丹十三の怪優ぶりも楽しい。R18指定だから、お子様は観ちゃだめだよ。おれは伊丹映画で洞口依子を初めて観て“好きな女優リスト”に加え、『ドレミファ娘……』はたしか九十年代になってからテレビで観たのだったと思う。この映画は、伊丹十三と洞口依子の馴れ初め作品でもあるわけだ。

 そういえば、大病をしてからの洞口依子はどうしているのだろうと検索してみたら、なんと先月から新しいブログ(以前もやってたみたいだが、そっちは閉鎖して新しいのをはじめたみたいだ)「洞口依子の独り言『がんって何様的日記』」がはじまったばかりだった。たまたまおれが観る番組に出てこないだけで、女優業もぼちぼち再開しているようだ。貴重な女優が戻ってきてくれて嬉しい。マイペースで息の長い女優活動を続けてほしいものである。RSSを受けるようにしておこう。伊丹十三がああいう不幸に見舞われなかったら、洞口依子のフィルモグラフィーもまた少しちがったものになっていただろうと思うと、言っても詮ないことだが、両者のファンとしては、とても残念だ。

 ほぼ同年輩の人ががんばっているのを見るのは、ものぐさなおれにでも、いつでも励みになる。みんな四十あたりから身体を壊しはじめるから、おれもあんまりがんばりすぎん程度にがんばらねばな。

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元気ハツラツぅ?

ウィー8戦目で初の予選通過/男子ゴルフ (nikkansports.com)
http://www.nikkansports.com/sports/golf/f-sp-tp1-20060505-27977.html

 16歳の女子高校生プロ、ミシェル・ウィー(米国)は69で回り、通算5アンダー、139で17位となり、上位79選手による決勝ラウンドに進んだ。ウィーが米国、日本などの男子ツアーに出場するのはこれが8試合目で、決勝に進むのは初めて。

(中略)

 ウィーの話 興奮した。予選通過は信じられない。今日はパットが良かった。まだ大会は終わっていない。集中して、もっといいプレーをしたい。

 パットが良かったって? そりゃあやっぱり、上戸彩のアドバイスがよかったんだよ。ついでにこういうのもやってほしいな――

  インタビュアー: 「予選通過のご感想をひとこと」
  ミシェル・ウィー: 「嬉しいと眼鏡が落ちるんですよ」

 眼鏡、かけてない、かけてない。

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2006年5月 5日 (金)

金貸しガールズたちのCM戦争

 消費者金融のテレビCM戦争は、小野真弓(アコム)、井上和香(プロミス)、安田美沙子(アイフル)の三つ巴の時期を過ぎ、アイフルが金融庁の取り締まりで派手なことを控えているせいか事実上脱落、最近は、CMの勢いで言えば、中川翔子(プロミス)と夏川純(ほのぼのレイク)の対決となっている。ちょっと元気がないが、熊田曜子(アコム)が追っているといったところか。

 調べてみると驚くのは、安田と夏川と熊田は所属事務所が同じ(PYRAMID)なのである。で、それぞれちがう消費者金融のCMをやっている。事務所的にも、いまの消費者金融のCMは、あきらかに若手女性タレントの登竜門として認識しているだろうから、スポンサーが商売敵だろうがなんだろうが、オファーが来たら渡りに舟、ふたつ返事でオーケーということなのだろうなあ。それどころか、この“消費者金融娘”たち三人の合同写真集を出したりしているくらいだから、あざとく商売に利用しているのだ。

 どの金融会社が生き残るかということと、どのタレントが生き残るかということは別なので、CMウォッチャーとしては、ひと粒で二度おいしいのが消費者金融のCMなのであった。気になるのは、目下、媒体露出でトップを走っているように見える中川翔子と夏川純とは、CMの短い時間のぱっと見では、かなりキャラがかぶっている点である。おれの母親なんぞ、同じコだと思ってるぞ。これは損じゃないかなあ。中川翔子が“新ブログの女王”などと呼ばれて(おれは元祖女王・眞鍋かをりのブログのほうが質的に数段上の面白さだと思うが)、素に近いヘンなキャラを出せる点で頭ひとつリードといったところだろうか。半年後にどのように勢力地図が描き変えられているか、なかなかの見ものだなあ。まあ、しょーもない楽しみではあるが、ウォッチングは面白いんだもん。

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2006年5月 4日 (木)

「フルーチェ」のCMは可愛いが……

 「フルーチェ」のCMに出てくる“みかんぼうや”“イチゴちゃん”が可愛くて、ぬいぐるみが欲しいなとちょっと思ったりするわけだが、よく考えると、みかんぼうややイチゴちゃんは、自分らの仲間の身体をすり潰してミルクでとじたものを嬉々として食おうとしているわけである。そういう目で見ると、かなりおぞましいCMではあるまいか。

 このCMを反転して考えてみよう。進化して知性を持った果物が支配する地球で、家畜として飼われている主人公の少女ジュリ(上野樹里)は、なにやらどろどろした「ヒューマニェ」という食品を、怪人みかん男やイチゴ女にすすめられる。妖しい美味の虜になり、「ヒューマニェ」を貪り食うジュリ。しかし、その食品の正体に疑問を抱いたジュリが調査を進めてゆくと、それは人間の死骸をすり潰してミルクでとじたものだと判明する。「ヒューマニェ」工場に単身乗り込んだジュリが見たものは、想像を絶する凄惨な製造工程だった! (主演:上野樹里、チャールトン・ヘストン/監督:サム・ライミ&マイケル・ムーア/脚本:友成純一&小林泰三/音楽:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 交響曲第六番『田園』/協賛:全米ライフル協会)

 ……みたいな感じになるよなあ。

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新造ナレーション

たったひとつの命を捨てて
生まれ変わった不死身の身体
鉄の悪魔を叩いて砕く
キャシャーンがやらねば誰がやる

 言わずと知れた、日本で最も有名なオープニングナレーションのひとつである(と思う)。

 だがこれ、いまさらのようだが、いつも「ヘンだなあ」と思うところがある。

 「不死身の身体」ってのは、馬から落馬しているのではあるまいか? 「不死身」というのを「死なない性質である」という形容動詞のようなものと捉えるとすると、それはそれでいいような気もするが、だったら「不死身な身体」でなきゃならないだろう。それもなんだか不自然だ。やっぱり、「不死身の身体」はトートロジーではないかなあ? まあ、このナレーションの韻律では、こうせざるを得ないのはわかるけどなあ。「夢を夢見る」に類する表現として容認できるかなあ。

 よく考えると、このナレーション、七・七・七・七・七・七・七・五がベースの字余りで、基本的には、都々逸なんだよな。七・七・七・五+七・七・七・五になるようにちょっといじると、完全に都々逸になる。

たったひとつの命を捨てて
生まれ変わったこの身体
鉄の悪魔を叩いて砕く
キャシャーンがやらね~ば~、ァ、誰~が~やる

 チン、トン、シャン……と、お座敷で謡ってみてください。

 都々逸になるということは、ちょっといじれば「よこはま・たそがれ」で唄えるのではなかろうか。やってみよう――

♪たった ひとつの 命を捨てて
 生まれ 変わった 不死身の身体
 鉄の 悪魔を 叩いて砕く
 キャシャーンがやらねば 誰がやる
 キャシャーンがやらねば 誰がやる
 もう 歌詞がない

 それにしても、連休の朝っぱらから、ほかに頭の使いみちはないのか。

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静かな勝利

阪神支局襲撃19年 礼拝所に市民ら340人 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0503/OSK200605030041.html

 記者2人が殺傷された朝日新聞阪神支局襲撃事件から19年たった3日、兵庫県西宮市の旧局舎跡地に新築された阪神支局1階に故・小尻知博記者(当時29)をしのぶ拝礼所が設けられ、市民ら約340人が手を合わせた。

 四年前、この事件の時効が成立する直前、おれは、「もし殺された小尻記者が、よくも悪くも増殖してゆくいまのウェブページの隆盛、インターネットの繁茂を知ることができたなら、きっと声高らかに笑って大いに喜んだにちがいない。小尻記者は勝ったのだ」と書いた。いまもその考えは変わらない。その後に登場したブログというものが、赤報隊とやらのアホさ加減をよりいっそう浮き彫りにしている。おまえらを非難、批判しているブログの主を、ひとり残らず殺してまわれるものならやってみるがいい。

 いま一度、おれは同じ言葉をここに捧げたい――「小尻記者は勝ったのだ」と。小尻記者が新聞記者として現役であったころに比べて、世の中は悪くもなったし、よくもなった。少なくとも、言論の自由に関してだけは――その技術的基盤に関してだけは、世界はかなり前に進んだと思う。いまは小学生でも自分の意見を世界に向けて発信できるのだ、それは誰にも止められないのだと、小尻記者に教えてあげたいものだ。“群集の叡智(the wisdom of crowds)”を信じない人が、新聞記者になろうと思うはずがないのだし、また、なってはならないのだから。

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2006年5月 3日 (水)

“愛国心”って、要するに“慣れ”のことでしょ?

 かれこれ四十三年ほど生きているが、おれにはいまだに“愛国心”というものがよくわからない。“日本における愛国心”がわからないという政治的な話なのではない。それももちろんよくわからないのだが、そもそも“愛国心”という言葉がなんなのかが、おれにはわからない。シニフィアンはそれそのものとしては空疎に認識してはいるが、シニフィエやレフェランがわからない。要するに、言葉として意味がさっぱりわからない。

 おれが個人的に最も疑問に思っているのは、愛国心というのは、その存在そのものが一種のトートロジーなのではないかということだ。Xさんは、A国に生まれ、A国の言語、A国の文化にどっぷり漬かって、A国で育った。とすれば、Xさんの人格はA国というものの存在を前提に形成されているのだから、Xさんに愛国心があるかどうかを問うこと自体が、そもそも奇妙な行為なのではないかと思うのだ。おれの疑問、わかってもらえるかな? ちょっと即物的に言い換えてみよう。おれの身体は主に炭素や水素でできている。そのおれに「炭素や水素は好きですか?」「炭素や水素のために死ねますか?」と訊くことになにか意味があるのだろうか? そういう話じゃないって? いいや、そういう話だよ。人格を認めるに足る人工知能が完成し、そのコードが仮に Java で書かれているとしてだな、その人工知能に「あなたは Java を愛していますか?」と尋ねているようなものだろう、“愛国心”という言葉は? ちがう?

 おれは日本語が好きだし、納豆が好きだし、お茶漬けが好きだ。豆腐も好きだ。日本に住んでいるということ自体が好きだ。しかしそれは、おれが日本に育って日本にしか住んだことがないからであって、単なる“慣れ”にすぎない。おれがほかの国に生まれて、ほかの国で人生をやり直せる方法があったとしたら、そのとき初めて、「日本と比べて、おれはこの国を愛している」という比較ができるのであって、そんな方法がないからには、“愛国心”という言葉には、単に“おれという人格はこの国に最も慣れている”という以上の意味などあり得ない。論理的にそうだ。でしょ?

 要するに、「国を愛する」とか言うから話が政治的になるのであって、「国に愛着を持っている」(つまり、ただ単に「慣れている」)以上でも以下でもないと思うのだな、“愛国心”というやつの正体は。そういう意味なら、おれは愛国心の塊である。ものぐさだからだ。できるだけ多くの異なる国に“愛着”を持つのは、考えただけでもたいへんな労力を要することだ。

 おれがいま使っている腕時計はそろそろ買って三年になるが、もしこいつを生まれたときから四十三年と半年くらい使っていたとしたら、おれはこの時計に日本という国に対するのと同じくらいの愛着を持つことだろう。それだけのことなのだ。おれには、いわゆる“愛国心”と“国に対する愛着”との区別が、皆目わからないのである。まったく同じものだと思っている。おれの愛国心は、腕時計や眼鏡やペンやパソコンやケータイに対する愛着心の延長線上にある。おれが納豆が好きだという気持ちの同一次元に愛国心はある。おれの納豆に対する愛着心を何倍かにすれば、それはおれの愛国心になるのだ。そうとしか思えない。

 たいていの人はそうなんじゃないの? おれの言ってること、なにかヘン?

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2006年5月 2日 (火)

《大魔神》シリーズでストレス解消

 連休三日めにして、GyaOでやってる《大魔神》シリーズ(5月15日正午まで)を三本とも観てしまった。むろん、おれの歳だと子供のころにしばしばテレビでやっていたので全部観たことはあるのだが、まあ、最後に観てから三十年は経っているんで、ついつい懐かし心が湧いて観てしまったわけなのである。

 『大魔神』『大魔神怒る』『大魔神逆襲』の三本で《大魔神》シリーズは打ち止めになっているが、こうして大人の眼で観ても、なかなか面白い。もう、これ以上ないくらいの定石どおりの勧善懲悪カタルシスの塊であって、なにも考えずに連休でだらだらしながら頭を休めるには持ってこいの痛快特撮時代劇である。定石どおりだからといって、クオリティが低いわけではない。むしろ、いま観ても充分楽しめる質の高さなのだ。ずし~~ん! ずし~~ん! と、あの重量感のある足音を響かせながら、顔が緑色になるほどに怒り狂った大魔神が、社会保険庁やら雇用・能力開発機構やらを蹴散らしてゆくシーンを想像しない庶民はおらんだろう。いや、マジで、時代劇を頭の中でそういうふうに翻訳して観ると痛快だぜ。

 おれは『大魔神怒る』がいちばん好きだなあ。健康的な高田美和よりも、ちょっと病的ではかなげな藤村志保のほうが好きだということもあるが(印象はあくまで当時)、二本目くらいがやっぱりいちばん脂が乗ってますな。『十戒』へのオマージュシーンなどという遊び心もある。

 『大魔神逆襲』ってのは、よく考えるとタイトルがおかしい。前二作ではたしかに悪者どもが武人像を破壊しようとするシーンがあるんだが、『大魔神逆襲』だけはそういうシーンはないのである。つまり、唯一“逆襲”じゃない三本めが、なぜか『大魔神逆襲』なのである。興行的にいろいろあったんでありましょう。映画のタイトルってのは、存外に大人の事情の塊ですからなあ。でもまあ、『大魔神逆襲』には、北林谷栄が出てるのでオーケー。この人ときたら、この時代にすでに妖しいお婆さんなのである。最高ですな。主演格の少年が二宮秀樹ってのもいい(『大魔神』にも出てるけど)。誰それってあなた、『マグマ大使』ガム君ですがな。なんちゅうか、このころの二宮少年は、男が見てても可愛いんだよね。声がいいわな、声が。ショタコン新“ブログの女王”のことではない)の女性というものがどういう感じなのか、おれでもかすかに想像できるくらいに、なにやら妖しいいとおしさを覚えてしまう好少年である。もっとも、今やおれとほぼ同じくらいのおっさんになっているにちがいないのだが……。

 こうして懐かしいものを観直すと、筒井康隆がシナリオを書いた『大魔神』の映画化が頓挫してしまったのは、返すがえすも残念だ。まだ映画化される可能性はあるのかなあ?

 タモリの“大魔神子”も、もう一度観たいなあ。

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2006年5月 1日 (月)

今月の言葉

ケロかわいい

 いま、カエル風で可愛いコが大人気。

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『親指ウォーズ』も観た

 おっと、以前に呆れた『親指タイタニック』の姉妹篇『親指ウォーズ』(こっちが先だけどね)がGyaOで配信(放映とは言わんのだよなあ)されていた(5月20日正午まで)ので、確信犯的にうっかり観てしまった。ああ、バカバカしい。意外とCGが本格的なので、ちょっと驚く。ちゅうか、ここまで本気でやってるバカバカしさがまたたまらない。

 “パチもん”のヨーダがいいなあ。ヨーダだけは親指じゃないところを妙に言いわけしているところがいい。なんか連休はGyaO漬けになりそうな感じ。《大魔神》とか《眠狂四郎》とかいっぱいやってるし。

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