« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »

2006年4月の34件の記事

2006年4月29日 (土)

利害の一致

横田さん親子、米大統領と面会 拉致解決協力を訴え (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0429/TKY200604280381.html

 純プラグマティックに考えた場合、今回のことはよかったと思う。北朝鮮に脅威を覚えさせるのには有効だろう。横田早紀江さんのガッツには、いつ見ても頭が下がる。おれの母親より年上なんだからなあ。

 が、「国際社会からの尊敬を得たいのであれば、人権を尊重すべきだ」などとほざくブッシュ大統領には、「おまえが言うか~!」とツッコミたくなるのはおれだけではないだろう。「人権を尊重し、自由社会を実現させることを、私は強く保証する」ですかー。ほー、そうですかー。人権を尊重し、自由社会を実現させるためには、たいした理由もなくよその国に攻め込んで多少の犠牲を払うくらいはなんでもないほどに、ブッシュ大統領は人権の尊重と自由社会の実現にオブセッションを抱いているようだしね。ブッシュ大統領の言う“人”権というのは、正確には“キリスト教徒の白人”の権利という意味なんじゃなかったけか?

 ともあれ、支持率がガタ落ちになっているブッシュを効果的に利用するのはいまがチャンスではあるだろう。ブッシュだって、横田早紀江さんたちを利用しているつもりなのだろう。いわゆる win-win の関係にある。釈然とはしないが、人権を尊重し、自由社会の実現を“保証”するわれらが大統領に、とりあえずバンザイ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年4月28日 (金)

「おいきなさい!」とはビミョーにちがうのよ

 帰宅してテレビを点け、スーツを脱ぎながら横目で観ていると、釈由美子が法廷で男に指を突きつけ、「もう逃げる場所はありませんよっ!」をキメるところだった。『七人の女弁護士』(テレビ朝日系)というやつである。なんか美人ばっかりの弁護士事務所で(約一名除く)、おれには『プレイガール』の弁護士版みたいに見える。わからない人はお父さん・お母さんに訊いてね。

 しかし、この釈由美子の決め台詞と、指を突きつける決めポーズは、あまりといえばあまりにあざといなあ。柳の下の泥鰌ってやつか。いやまあ、カッコいいから好きだけどさ。よーく観察すると、あの一世を風靡した(というほどでもないか)「おいきなさい!」『スカイハイ』)と、ちょとちがうのがわかる。『スカイハイ』のイズコは、人差し指をやや手の甲側に反らして角度をつけ少し上を指しつつ、親指はフレミングの右手の法則を確認するときのように人差し指と直角に外側に伸ばしているのに対し、『七人の女弁護士』の藤堂真紀は、親指を内側に折り込んで、人差し指が手の甲のラインと一直線になるように突き出し、指先から出る目に見えないビームで悪いやつを貫くような感じでポーズを決める。「おんなじじゃん」と言ってる人、よく見るように。

 とか言ってるが、おれはこのドラマ、ちゃんと通して観たことがないのである。まるで『水戸黄門』で由美かおるの入浴シーンと印籠のシーンだけ観ているようなもので、たまたま「逃げる場所はありませんよっ!」の前後ばっかり目にするのである。録画してまで観ないから、いつもそうなるのだ。すんません。できるだけちゃんと観るようにします。

 釈由美子は、最近あきらかに滑舌がよくなったね。「おいきなさい!」は舌を噛みそうで危なっかしいときもあったのだが、今回の弁護士はさすがに特訓したのかな。“ゴールデン連ドラ初主演”といった報道のされかたをしていたが、たしかに言われてみればそうなのである。意外な感じだ。連ドラ主演はあったが、みんな深夜枠だったよな、そういえば。まあ、とにかく釈ちゃんにはがんばってもらいたい。出世したねえ、不思議ちゃん。

 それはともかく、「逃げる場所はありませんよっ!」のポーズ、「おいきなさい!」というよりは、おれには『笑ウせえるすまん』に見えちゃうのは内緒だ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年4月27日 (木)

大竹しのぶの自乗

 相手の声がゆっくり聞こえる“ゆっくりボイス”機能がウリの「FOMAらくらくホンII」のテレビCMで、大竹しのぶ「あたしみたいになるんだ」などと言っている。まあ、誰が考えてもこうなるキャスティングではありますな。お年寄りなどには便利な機能だろう。

 しかし、おれは気になるのだ。機械に疎い人がこのケータイを使っていて、“ゆっくりボイス”機能がオンになっているのに気づかずに、ほんとうに大竹しのぶとしゃべったとしたら、そのストレスはいかばかりであろうか? 彼あるいは彼女は、大竹しのぶの“遅口”のあまりのじれったさに、あたかも粘性の高い液体の中をもがきながら進んでゆくかのように苦しげに身をよじり、早く末成由美未知やすえがキレてくれないかなあと期待しながら、やっぱりずっと身をよじり続けることになるにちがいない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年4月25日 (火)

語り得ぬことについては沈没せねばならない

 眞鍋かをり嬢がまたまた「ワカラナイクイズ」なるヘンなものを考案して遊んでいる。どうもこの人は脳の配線がふつうじゃないと常々その特異な発想に感嘆しているのだが、こういう言葉遊びに妙にこだわるあたりにはヒジョーに親近感を覚える。

 おれが思うに、これは二段構えにしたほうがインパクトあるんじゃなかろうか。

 「『それでも地球は動く』と言ったのは遣唐使船ですが、では三角形の内角の和は、いつ?」

 ……みたいな。

 いきなり度肝を抜くという手もある。

 「それでは問題です。なぜ、角を取らないっ!

 突然、怒られてもなあ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年4月24日 (月)

暗い……重い……危険……

NASA Achieves Breakthrough In Black Hole Simulation (NASA)
http://www.nasa.gov/vision/universe/starsgalaxies/gwave.html

 同じ質量で角運動量を持たないふたつのブラックホールが合体するときに出る重力波のようすを、NASAがコンピュータでシミュレートすることに成功したそうな。上記サイトで動画が観られる。

 いやあ、美しいね、これ。美しいたって、こんなもん、たとえ目の前でブラックホールがくっつくようなことがあったって、重力波は目では見えんわけだから(というか、そんなもん目の前で見てたらガンマ線やらなにやらで黒焦げだろう)、これはこういうものをコンピュータでシミュレートできるほどの文明を持った知性だけが見られる、自然の藝術なのだ。何度も飽きずに観ちゃうね。地球人に生まれてよかった。

 この比較的単純なシュヴァルシルト・ブラックホールの合体でも、NASAがいままでにやった最も大がかりなコンピュータ・シミュレーションだそうだから、回転するブラックホール同士の合体ともなると、いったいどんなことになるのだろう。まあ、人類はそのうちそんなシミュレーションも実現するだろう。楽しみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月23日 (日)

これがニッポンのジョーシキです(ふるっ)

常識力検定が人気 企業や学校、検定ラッシュ (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0423/004.html

 食べると体が冷えると言われる野菜は? 門松は遅くともいつまでに飾る? 日常生活やビジネス上の知識を問う「常識力検定」が人気だ。自分の常識度を試そうという個人からじわじわと広がり、最近では社員教育に採り入れる企業や、「卒業後を視野に入れた教育に最適」と受講させる大学や高校まで出始めた。
 検定が始まったきっかけは、ある出版関連会社の会議だった。参加していた大学教授らから「基本的なマナーを知らない若者が多い」という声が上がったのを受け、「いっそのこと、常識度を測る基準を作ってみてはどうだろう」。会議の参加者らの呼びかけで、賛助企業も現れた。日本常識力検定協会(東京都新宿区)を立ち上げ、01年から試験を始めた。

(中略)

 「勉強法」はあるのか。同協会の鈴木博正・事務局長(50)は、新聞を毎日しっかり読むことだと話す。「報道で知った苦手分野の知識をこまめに記録し、後で読み返せば身につきます」
 1級ともなるとマニアックな問題が多くなるが、「自分の苦手分野がわかった」などと発奮、更に上級に挑戦する人が多いという。

 ちょ、ちょっと待て。“勉強”しなければならないようなものは、はたしてそもそも“常識”なのか?

 むかしからのいわゆる“常識”が常識でなくなってきているのには、悪い面もあれば良い面もある。なぜそれが常識でなくなってきているのかを分析・考察するほうが重要なのではあるまいか? どう考えたって、早く“常識”でなくしてしまったほうがいいような、非合理的な“常識”も少なくない。自分たちの暮らしや仕事に密着していないような“常識”を無理やり“勉強”して、そんな“常識”がクイズ以外のなんの役に立つのだろう? まあ、おれ自身は、そういうトリビアは嫌いじゃないけどね。“知っていて無視する”ほうが、より楽しいことはたしかだ。なに、厭らしい? ええ、どうせおれは常識がないですとも。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

Web2.0風Web1.0

 アンケートの入力フォームなどで、住所をいちいち入力するのはとても面倒くさい。そこで、入力支援として、郵便番号を入力すると、それに対応する住所が自動的に表示される仕組みを考えてみたい。

 郵便番号というのは、約十四万個あるそうだ。まず、テキストデータでそれを入手しよう。

 入手したら、JavaScript の switch 文で十四万個の case を定義し、すべての郵便番号に対応する住所をそれぞれ変数にセットして表示するように、十四万とおりの住所をひとつひとつコピー&ペーストしてゆく。じつにシンプルだ。HTML ファイルひとつで処理が完結するうえに、Ajax などという流行りものとちがって、一度読み込んでしまえばローカルでも動作する優れものである。時間のある人は、if 文でやってもマニアックな自己主張ができてカッコいいかもしれない。

 通信速度が遅かった時代には考えられなかったユーザインタフェースが、インフラの飛躍的発達によって、こうして現実になってゆく。ウェブの進化ってすばらしいなあ!

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年4月22日 (土)

伝承の崩壊

 近所を歩いていると、小学校低学年くらいの女の子たちが、珍しく“花いちもんめ”をやっていた。むかしは、あちこちからあの歌がしょっちゅう聞こえていたもんだが、いやあ、やっぱり最近の子もやったりするんだなあ、懐かしいなあと耳を傾けながら、おれはその場を通りすぎようとした。

 ところが、背後からはっきりと聞こえてきたのだ――

♪勝ってうれしい、花いちごんべー
   負けーてくやしい、花いちごんべー

 あれは聞きまちがいではない。少女たちは何度も何度もそう唄っていたのだ。替え歌を唄って面白がっているふうでもない。なんの疑いもなく、楽しそうにそう唄っていた。

 きっとあの子らは、花市権兵衛という格闘家かなにかが試合の結果に一喜一憂する歌だとでも思っているのだろうなあ。とはいえ、哀しい人身売買の歌だと教えてやるのも興を殺ぐような気がする。そんな歌で遊べないよなあ。

 家に帰って母にその話をすると、母は大笑いして言った――「“どん兵衛”でのうてよかったこっちゃ」

 そ、そういう問題か……。

 ま、まさか、すでに「花いちごんべー」の歌詞のほうが優勢だったりするんじゃないだろうなあ?

| | コメント (4) | トラックバック (0)

見るものなんでも、やわらか仕上げ

Yawaraka 「やわらか焼いか醤油味」「やわらか戦線異状なし」は似ている。

 何度も言ってると似てくるってば!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

まぶしい絶対領域

ZettaiUltraman と、とくに解説しようとは思わない。

 わかってくれ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Web2.0 だって?

 いままでのはベータだとばかり思ってた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月21日 (金)

夕暮を迎えつつあるいま

 エロ姐さん、杉本彩『エロティックス―私のカラダを熱くした官能文学名作選』というアンソロジーを出したそうなのだが、ラインナップを見てみると、おれが読んだことがあるのは、吉行淳之介『夕暮まで』と谷崎潤一郎「刺青」くらいであって、やっぱりおれはSFだよなあ、彩姐さんにはかなわんなあと思う。

 吉行淳之介ならおれは相当読んでいるぞ。最も好きな作家のひとりだ。だが、『夕暮まで』が「私のカラダを熱く」するような官能小説かどうかということになると、首を傾げざるを得ない。女性は感じかたがちがうかもしれんけどなあ。吉行淳之介は、逆立ちしても官能小説家じゃなくて、非常に緻密かつ分析的で、おれは一種の“ハードSF作家”として読んでいるくらいだ。ハードSFと言って悪ければ、“感情の実験小説”という感じだ。『夕暮まで』が、「夕暮族」という流行語まで生んだセンセーショナルなベストセラーだったということは、若い人は知らないかもしれない。今読むと新鮮かもしれない。おれ自身が、すでにそろそろ夕暮族になれる年齢になっちゃってるのは、感慨無量である。いや、ならない、というか、なれませんけどねー。

 いわゆる“エロ小説”と“官能小説”とは、似て非なるものだと思うんだよな。そういう意味で新潮社は、品格を落とさずにエロを打ち出すにあたって、杉本彩というトリックスターを持ってくるとは、なかなかに商売上手だなあと思うのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月20日 (木)

京都は誰が守るのか

京都中心部、建物の高さ制限45→31mに…市長方針 (YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060419i116.htm

 京都市の桝本頼兼市長は19日、市中心部の建物の高さ制限を、現在の最高45メートルから、31メートルに見直す方針を明らかにした。
 三方を山に囲まれた京都の景観を守るには低層の街並みの維持が必要と判断した。
 ビルでは10階建て程度にあたり、市は「都心部でこれほど厳しい高さ制限は全国的にも珍しい」としている。
 見直すのは、中心部の中京、下京両区内にある御池、四条、五条、河原町、烏丸、堀川の6つの幹線道路沿い。これらの道路に囲まれた地域などは「木造2階建ての京町家が多く、京都の生活文化を伝える特徴的な地区」として現行の最高31メートルを15メートルに引き下げる。

 こ、これはたいへんだ! ここを読んでいるような人であれば、七人に四人くらいは、なにがたいへんなのかすでに薄々察していらっしゃるであろう。

 そう、とうとう初代ウルトラマンも京都では景観を損ねずには闘えなくなってしまうのである。

 あれやこれやと何人もいるウルトラマンたちのうち、まあ、ウルトラマンAくらいまでは、だいたい四十メートルくらいの身長だったのだが、日本の建物の高層化に伴って、徐々に大柄なウルトラマンじゃないとサマにならなくなってきて、平成ウルトラマンたちは概ね五十メートル前後である。こういう現象は、ゴジラにもガメラにもある。今回の高さ制限の見直しによって、小柄な初期のウルトラ兄弟たちも、とうとう規制に引っかかることになってしまった。

 それにしても三十一メートルというのは厳しい。これで、京都を守ってくれるヒーローの選択は、かなり難しくなったと言えよう。マジンガーZ(十八メートル)やグレートマジンガー(二十五メートル)くらいが京都では手ごろな大きさだろう。とくに厳しい地域では、マジンガーZだってダメなのだ。

 怪獣や悪玉ロボットたちのほうはコンプライアンスなどおかまいなしにちがいないが、ヒーローはそういうわけにはいかないのだ。子供たちの手本なのだ。おお、そうだ! 鉄腕アトムがおったではないか! これで京都も安泰だ。

 「しかし、なぜ三十一メートルなどという半端な数字なのであろうか」と、たいていの人は訝るであろう。べつに半端ではないのだ。この基準を定めた京都の景観を愛する人は、ほんとうは平屋建てしか許さないことにしたかったので、「1Fを限度とする」とした下書きを部下に渡して書類を作成させたのだが、たまたまコンピュータおたくだった部下が、「これでは一般の人にわかりにくいだろう」と余計な気を利かせて、十六進数を十進数に換算したのである。ゆめ疑うことなかれ。

 ちなみに、コンピュータおたくであるこの部下は、当然のように数字はゼロから数える。彼は空き地を見ると、「0メートルの建物が建っている」と考えるのである。さらに彼の頭の中には、“空き地ですらない空白の土地”という奇妙な概念が“空き地”とはまったく別に存在し、それが物理的にはいったい全体いかなる状態の土地を指すのかおれにはうまく思い描けないのだが、どうやら彼は、リンゴとミカンがちがうくらいに、それらをはっきりとちがうものと認識して生活しているらしい。世の中にはいろんな人がいるものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月18日 (火)

喫煙ナンバー49の叫び

 いつのころからかすっかりむかしと変わってしまっているのだなあ……と思うことに、日々いろいろ遭遇する。歳を食った証拠か。今日もひとつ気がついた。

 おれは絶滅危惧ⅠB類に属する種族である。喫煙者である。よって、煙草を買ったりする。ほとんどコンビニで買う。

 コンビニで煙草を買うとき、むかしは「バンテージふたつ」などと、店員に煙草の銘柄を指定して買っていた。しかし、近年あまりにも長たらしいややこしい名前の煙草が次から次へと現れるようになったため、いつのころからかコンビニの店員は煙草の名前を覚えることを放棄した。たいてい店員の背後にあるコンビニの煙草の棚(未成年が買いにくいようにする配慮だ)には、銘柄ごとに番号が振られるようになったのだった。

 だものだから、近年はコンビニで煙草を買うときには、「16番の煙草ふたつ」などと言うのがふつうなのである。これは煙草を吸わない人は気にも留めない変化だろうと思うが、喫煙者にとっては大きな変化なのだ。なんとなく味気ないような寂しいような気がする。

 だが、たしかに合理的ではあるのだ。おれが煙草を吸わず、コンビニの店員をやっていたとしたら、「こんなものの名前とパッケージのデザインを何十種類もいちいち覚えていられるものか」とキレるだろう。それほどごちゃごちゃといろいろあるわけである。ちなみに、おれが吸っているのは「マイルドセブンエクストラライツ」だ。「わかば」やら「いこい」やら、せいぜい「ハイライト」くらいであれば、名前を言うのもさほど苦ではないが、なにしろ「マイルドセブンエクストラライツ」だぞ。いちいち言うのは言うほうだって相当面倒くさい。どのくらい面倒くさいかというと、「仮面ライダーBLACK RX」と言うのに匹敵するほど面倒くさい。「32番の煙草ひとつ」と言ったほうが、注文するほうだって楽なのは事実だ。しかし、あたかも町村の合併でむかしながらの味わいのあるおらが村やおらが町の名前が消えて味気ない名前になってゆくのを見るのにも似た、そこはかとない寂寥感を覚えないでもないのである。

 おれにソロモンの指輪があったなら(〈科学朝日〉の愛読者だった人にしかわからんネタだろうけど)、きっと煙草たちがこう叫んでいるのが聞こえることだろう――「おれを番号で呼ぶな!」

| | コメント (0) | トラックバック (1)

沈むも浮くも主題歌次第

日本沈没:久保田&韓流新人歌手で映画主題歌 (MSN毎日インタラクティブ < スポーツニッポン)
http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/music/news/20060417spn00m200001000c.html

 SMAP草なぎ剛(31)主演で33年ぶりに映画化される大作「日本沈没」(7月15日公開)の主題歌を、久保田利伸(43)と韓国出身の新人女性歌手SunMin=ソンミン=(18)が手掛ける。
 特別ユニット「SunMin thanX Kubota」を結成し、久保田プロデュースの楽曲「Keep Holding U」(7月5日発売)を歌い上げる。

 パニック映画の主題歌ってのは大事ですからなあ。ほとんどそれだけで印象が決まってしまう。『復活の日』という文字を見るだけで、ジャニス・イアンYou Are Love がイントロから頭の中で流れはじめるくらいに、『復活の日』=あの歌なんである。『ポセイドン・アドベンチャー』『タワーリング・インフェルノ』といえば、モーリン・マクガヴァンなんである。「パニック映画は主題歌だ!」というのが、おれが四十三年余の人生で得た経験則だ。

 このソンミンという人がどんな歌手かおれは全然知らないのだが、『復活の日』の主題歌に負けない、心に残る歌声を披露してもらいたいと切に願うものである。

映画『日本沈没』公式サイト
http://www.nc06.jp/

 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年4月16日 (日)

君は「アート買取協会」を知っているか?

 関西と東海にお住まいの方はよーくご存じだと思うのだが、「アート買取協会」という会社がある。なんで有名なのかというと、そのあまりといえばあんまりなテレビCMによって有名なのである。くだらないと怒る人もあれば、癒されると涙する人もあるという。

 首都圏の人はあまりご存じでないみたいなので、ぜひ知っていてほしいと思い、あえて紹介することにした。ちゃんとウェブサイトもあって、そのあまりといえばあんまりなテレビCMも動画で観られるようになっている。ご存じでない方は、まずは心の準備を整えて、とにかくこちらでCMを鑑賞していただきたい……。

 ……鑑賞しましたか? いかがでしょうか? なに、あいた口がふさがらない? これだから関西は? いや、本社は名古屋なのだよ、この会社。

 いや、笑うけどね。調べてみてわかったのだが、このCM、一応、社団法人全日本シーエム放送連盟(ACC)主催の広告賞「2001 41th ACC CM FESTIVAL」に於いて、ACC金賞、ACC銀賞、ACC銅賞に次ぐ、「ACC賞」テレビスポットCM部門に輝いているのだった。同じ賞に二十三本が輝いているが、そんなことは問題ではない。二千四百十七本のテレビCMから選ばれた二十三本であるからして、まあ、百本に一本くらいの傑作なのである。

 おれはそこはかとなく好きなんだけどねー。ま、怒る人の気持ちも、少しくらいはわからないでもない。

 そもそもこの貝、せっせと貝取りしているからには、おそらくこれから共食いしようとしているわけなのである。そう思って鑑賞すると、ステロタイプな高級感を醸し出しているサティの「ジムノペディ」が、妙にホラーっぽく聞こえてくる。さては、そこらあたりが評価されて賞をもらったのだろうか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

所変われば……

「主体性に自信」の大学生は3割 求人企業と大きなズレ (asahi.com)
http://www.asahi.com/job/news/TKY200604150258.html

 就職活動中の大学生で「主体性」に自信がある学生は3割弱にとどまる一方、8割以上の企業は「主体性」を求め、採用企業と学生の意識に大きな隔たりがあることが経済産業省の調査でわかった。同省は、こうしたずれがニート急増の一因とみて、今後、大学や企業と共同で教育手法の改善に取り組む考えだ。

 「主体(チュチェ)性」って読むんだったらコワい。そんなものはないほうがいい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

とてもつまらないこだわり

 ちょっとトイレかなにかに行って戻ってきたとき、パソコンの画面がスクリーンセーバになっていたとする。

 さて、あなたはどうやって通常の画面に戻るだろうか?

  (1)適当なキーを押す。とくに押すキーを決めているわけではない。
  (2)Shiftを押す。そうでないと気色悪い。
  (3)Ctrlを押す。そうでないと気色悪い。
  (4)Escを押す。そうでないと気色悪い。
  (5)←↑↓→のどれかを押す。そうでないと気色悪い。
  (6)テンキーを叩く。そうでないと気色悪い。
  (7)マウスを動かす。そうでないと気色悪い。
  (8)その他、いつも決まったキーを押す。そうでないと気色悪い。
  (9)自宅でもスクリーンセーバにパスワードをかけているので、ワンアクションでは通常画面に戻れない。
  (10)いちいちそんなことを気に留めたこともない。

 おれは(2)か(7)である。そうでないと、なにかこう、“ベッドのまちがった側から起きた”かのような、えも言われぬ気色悪さを覚える。われながらつまらんことにこだわっているなあとは思うが、気色悪いもんは気色悪いのだからしようがない。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

2006年4月15日 (土)

すごい瞬間に遭遇してしまった

Bikkuri 一瞬、目がどうかしたのかと思ったね。こういう偶然ってあるんだねえ。

 宝くじでも買おうかしら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『クロサギ(1)~(3)』(黒丸・[原案]夏原武/ヤングサンデーコミックス)

 父親が詐欺に引っかかって一家心中した家族でただひとり生き残った息子が、数年ののち、詐欺師たちに噂される存在となっていた。詐欺師のみをターゲットにする詐欺師――人呼んで“クロサギ”として。

 この春からテレビドラマになるというので、先日最初の三巻を読んでみたのだが、なるほど、こりゃドラマ向きだ。この設定を得ただけで、もう半分勝ってますわな。詐欺師を騙す詐欺師の話というだけで買ってみるおれみたいなのがいるわけだから。いやおれ、詐欺師ものって好きなのよな。

 三巻まででは、まあ、かなり一般的というか古典的というか、オーソドックスな詐欺が取り上げられている。新聞の社会面的な話題に疎い幸福な方が詐欺のお勉強をするには持ってこいである。現在九巻まで出ているが、詐欺ったって、エンタテインメント性の高い手口がそうそうたくさんあるわけもなく、おおまかにパターン分けできてしまうはずであって、話が進むにしたがってシンプルなネタが枯渇し、徐々に複雑な手口のものもネタになってゆくのだろうな。

 主人公の“クロサギ”こと黒崎は、表向きは喫茶店「桂」のマスターをしている“フィクサー”と呼ばれる老人・桂木から、カモにするためのふつうの詐欺師“シロサギ”の情報を買っている。桂木は桂木で、黒崎の敵でも味方でもなく、独自の不可解な興味だか規範だかに基いて、黒崎を掌の上で遊ばせるようにして商売をしている(実際、人相の悪いお釈迦様みたいな顔をしているのだ)。じつは黒崎の父親が一家心中を図るにいたった詐欺事件のプランを立てた詐欺師はこの桂木であって、黒崎もそのことを知っているし、黒崎が知っていることを桂木も知っている。なんとも奇妙な関係なのである。この奇妙な二人の周囲に、検事をめざしている大学生のヒロイン・氷柱(つらら)、黒崎の逮捕に執念を燃やすキャリアの刑事・神志名らが絡み、詐欺師対決を横糸、人間模様を縦糸に物語が織られてゆく。

 どうもおれには、この『クロサギ』、手塚治虫の『七色いんこ』に影響を受けているように思えてならない。まあ、おれには、なんでもかんでも手塚作品の影響下にあるように見えてしまう悪い癖があるのだけれども、構造的によく似ていることはたしかなのである。七色いんこ・鍬方陽介は、財界の黒幕でさんざん悪事を働いてきた自分の父親と戦うわけだが、自身は天才的な役者であると同時に神出鬼没の大泥棒でもある。世間的な規範では、どっちも悪人といえば悪人なのだ。『クロサギ』では、いんこの父親の役回りが、桂木と部分的に重なってくる。いんこを愛しつつも職業上対決もせねばならない千里万里子刑事は、『クロサギ』では、むろん氷柱に重なる。泥棒:刑事=詐欺師:検事志望学生となっているわけだ。

 七色いんこが真に憎むものは、自分の父親個人のみというわけではなく、父親に象徴的に代表される、弱者の人生を虫けらのように踏みにじってゆく権力者の巨悪の論理であり、国家のエゴである。黒崎が憎むものも、じつは個々のシロサギではなく、弱者を食いものにする論理がまかり通る現実というものの忌々しいありかたそのものなのだろう。ゆえに『クロサギ』では、「人を食いモノにして潰していくような腐った大企業しか狙わない」詐欺師を黒崎のライバルとして登場させ、多くを語らない黒崎との共通点を際立たせることで、黒崎のキャラクター造形に深みを加えている。『七色いんこ』の想定読者層がもう少し高く、もっと長期の連載が可能であったなら、手塚治虫も遅かれ早かれ、七色いんこに同じようなライバルをぶつけてきたかもしれない。

 と、三巻まで読んでそこそこ面白かったものだから、テレビドラマも初回を観てみたんだが、主人公のイメージはだいぶちがうなあ。あそこまでイケメンじゃ具合悪いでしょ(イケメンじゃなきゃいけない大人の事情はわかります、ハイ)。ま、“フィクサー”が山崎努という秀逸なキャスティング(よく出てくれたなあ)に免じて、すべて許す。山崎努を観るためだけにでも、努めて観るようにしようっと。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年4月13日 (木)

再帰的な出会い

 いやあ、なんかたまたまこういう文章を見つけてしまうと、こんなアホ日記でも続けることに価値があるのだなあと思えてきて、そこはかとなく心強い。低俗は力なり、とはよく言ったものである。書くほうは勢いで書いているのに、よく読んでくれている人がいるんだなあ。

 こういう一期一会の体験が、図らずも「あなたが発信する、発信できる情報に価値がないなどということはあり得ない」ということを再帰的に証明してくれているのだ。

| | コメント (4) | トラックバック (2)

ブスに目覚めつつある四十三歳の春

 『ブスの瞳に恋してる』なる本がドラマ化されたそうで、あちこちで話題になっている。おれは本も読んでないし、ドラマも観てないのだが、なんでも、いま世間では“ブスがキテいる”らしいのである。「ブスにもブスの生き方がある」なんて歌が放送禁止になった時代を思えば、隔世の感がありますな。

 いやじつは、おれはなぜか最近、森三中村上知子とか、アジアン隅田美保とかが、妙に魅力的な顔をしているように思えてならないのである。彼女ら自身が“ブス”を商売にしているので遠慮なくブスと言わせてもらうが、さてはおれも歳と共に人間ができてきて、ブスの魅力に目覚めたのかもしれない。いや、正直、村上も隅田も、世間一般の美人の定義からは外れているかもしれないが、じつに味のある、いい顔をしている。いっそ美人と言ってもいいのではないか。多少全体のバランスは悪いかもしれんが、目がいい、目が。

 いや、おれには近ごろそういう趣味が出てきたというだけで、べつに強く同意を求めているわけではないんだわ。だけど、村上や隅田をあくまでブスと呼ばねばならんのだとしたら、見ていて心地よいブスだよね。そういうのは、おれはブスではないと思うのだよなあ……。

 も、もちろん、いわゆる美人も、あいかわらず好きではありますよ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年4月11日 (火)

愛子ちゃんはいいなあ

 いやあ、愛子ちゃん、可愛いねえ。

 なに? どこの愛子ちゃんだ? 上村愛子でも皆藤愛子でもない。佐藤愛子宜保愛子であろうはずがない。ないない。もちろん、皇室の愛子ちゃんだよ、皇室の。

 なに? おまえは皇室が嫌いだったはずではないのかって? おお、嫌いだともさ。だが、愛子ちゃんは例外だ。ヘンにこましゃくれた美人顔をしていないところがいい。いわさきちひろの絵から抜け出てきたような、ぷっくりとした童女らしい可愛さに溢れているではないか。座敷童子というものがいたとすれば、きっとあんなふうな可愛い子であるにちがいない。

 愛子ちゃんは、今日幼稚園に入園したそうだ。制服姿がまた可愛い。制服を着るとますますパタリロに似て、とても可愛い。あんまりお母さんのようなわかりやすい美人顔になってほしくないなあ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(梅田望夫/ちくま新書)

 痛快なアジテーション本。この本が理解できて面白い人はじつはこの本を読む必要がない人であり、最もこの本を読むべきである人は、たぶん書いてある文字は追えても、じつのところなんのことやらさっぱりピンと来ないにちがいないという類の本である。著者もそのことはよくわかっているのだ。要するに本書は、Google なしでは日常生活に支障を来たし、ロングテールやらWeb2.0やらといった言葉をアマゾンなどを利用することで“体感”していて、ろくでもないアホ話ばかりが書かれている小市民のブログをいままさにこうして読んでいるような人々が、「ああ、そうそう。よくぞこういうふうにまとめてくれた。グッジョブ」と愉快になるための本だろう。

 “ネットの「こちら側」と「あちら側」”という捉えかたは言い得て妙で、これがしっくりわかるかわからないかで、ほとんど人種が分かれると言ってもいいのではなかろうか。これがわからない人に、その意味するところを伝えるのは、自転車に乗ったことのない人に自転車に乗った“感じ”を伝えようとするのにも似て、たいへんな労力を要する。おれにも経験的にわかる。そして、その労力はたいてい報われないのである。

 空しいといえば空しい営為なのだが、おれとほぼ同世代の著者は、それでも、いまインターネットをめぐって起こっている、起こりつつある現象を、ネットの「こちら側」にしか軸足のない人々に、根気強く説明しようとしている。これには正直頭が下がる。おれなんかは根気がないから、ビジネスの場でも、「わからんやつにはわからん」と腹の底では割り切りながら、適当に「こちら側」族の相手をして、絶望的にシラケているときがある。これからは便利だ。「まあ、あの本に書いてあるようなことが起こっているわけでして……」と手間を省くことができる。相手が本書を読んで理解してくれるかどうかはまったく別として、少なくともその場は手間を省けるではないか。

 本書でひとつ気になるのは、“ネットの「こちら側」と「あちら側」”の感覚を、過度に世代に結び付けている点だ。おれが思うに、これはあんまり世代とは関係ないような気がする。若い世代でも、インターネットを駆使しているくせに、全然没入(「ジャック・イン」ってのは古いか?)してないというか、「あちら側」に世界があるという感覚とは無縁の使いかたをしている人々がけっこういる。一方で、年配でインターネットにさほど親しんでいなくても、なにか「こちら側」とは異なるレベルの世界を“どこかに”持っている精神の構えの人は、少なからずいる。

 考えてみれば、ものの役に立つわけでもない“フィクション”の世界に没入することを習慣にしている人たちは、ネットが普及する以前から、「こちら側ではないどこか」の世界に実体をひしひしと感じているわけであって、ネットの「あちら側」にビジネスの軸足を置こうとする企業の出現など、なんの違和感もなく受け容れられるのである。インナースペースとサイバースペースは地続きなのだ。インナースペースが宗教や習俗という装置によって経済活動とリンクすることは、文化人類学・経済人類学的に珍しい現象ではない。サイバースペースがそうなりはじめたからといって、とくになんの不思議もおれは感じない。本書で革命的企業と位置づけられているGoogleは、インナースペースに於ける神話体系のような共同幻想装置のサイバースペース版だと捉えればしっくり来る。その装置の歯車を経済装置のそれと噛み合わせる「アドセンス」は、言ってみれば、神託のようなおみくじのようなものを提供して、お布施や賽銭を集めているようなものだ。

 ……てな、よしなしごとをいろいろと考えてみるための肴として、本書は、ここに書いてあることを知識としてはすでに知っている人たちにも、かなり楽しめると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2006年4月10日 (月)

出そうで出ない商品

 エステー化学は、「消臭力」といういい商品を持っていながら、どうして「消臭小力」を出さないのだろう? もったいない。

 小林製薬だったら、絶対出してるよな。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年4月 9日 (日)

熱愛だらけ

ウド鈴木“BoA似”20代ソムリエと熱愛 (日刊スポーツ > infoseekニュース)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/entertainment/love.html?d=04nikkanspettp00604040008&cat=39

さとう珠緒が内田滋と熱愛 (スポーツ報知 > infoseekニュース)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/entertainment/love.html?d=20060406hochi048&cat=60

エビちゃん イケメン美容師と熱愛か (スポーツニッポン > infoseekニュース)
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/entertainment/love.html?d=07sponichitycb001&cat=24

 あのですねー、芸能人の愛ってのは、みーんな“熱愛”なのか? 「友だちのような愛発覚!」とか「燠火のようなまったり愛のすべて!」とかいうのはないのか?

 これも、少年はいつも銃を“乱射”し、罪を犯して捕まる医者は必ず“エリート医師”であり、死体で発見されるOLは必ず“美人OL”であるのと同じようなものなんだろうなあ。芸のないこと、おびただしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

京都府知事選挙の投票に行く

 全然盛り上がらない京都府知事選挙、おれは病気でもないかぎり棄権しないので、そりゃ一応行きましたよ。自民・民主・公明・社民が推薦する無所属現職の山田啓二知事と、共産党が推薦する無所属新人候補・衣笠洋子氏の一騎打ち。形の上では双方無所属なんだが、まあ、構造的にはいつもどおりの面白くないパターン。

 昼飯食ってから行くと、ガラガラではあるまいかと思っていた投票所が意外とにぎやかだったので、ちょっとびっくり。ここいらへんだけの現象だろうか? テレビでは午前中の投票率はかなり低いようなことを言っていたのだが……。ひょっとして、共産党が強い土地柄もあるから、京都初の女性知事誕生――というところまではいかなくとも、衣笠氏はかなり善戦するのではないか。

 かねがね思っているのだが、どうして選挙を日曜日にやるのかね? それも一日だけ? 最近は期日前投票する人も増えてきているが、あいかわらず公式な投票日は一日だけである。こんなもん、一か月くらいかけてやったらいいのではないか? 誰に不都合があろうか? 開票も即日で行う必要などない。先の横浜市長選のように、翌日開票でもいっこうにかまわん。いや、なんだったら人件費が余計にかからないように、二、三日かけても、いや、一週間くらいかけたって全然かまわない。まことに、先の横浜市長選はいいアイディアだと思う。どうしていままで誰も思いつかなかったのだろう? よいやりかただから、たちまち全国に広がってゆくものとばかり思っていたんだがなあ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 8日 (土)

英語を教えナイト? 2

「小学生は国語力を磨け」、石原都知事が文科省を批判
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200604070301.html

小学校英語必修 都知事「ナンセンス」発言に文科相反論
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200604070117.html

 「あの男が必ず批判するだろう」と思っていたら、案の定である。おれは石原都知事にも文部科学大臣にもどちらにも批判的だ。理由は先日のエントリー「英語を教えナイト?」で述べたとおり。どうして両極端になるのかね?

 その発言にはしばしば失笑させられる石原都知事ではあるが、今回は、少なくとも字面では、かなりまともなことを言っている。が、この人は、ただただ外国が嫌いなだけではないかと思えるフシが多々あるから、おれが“まとも”だと言っている部分を、本人はおれとはまったくちがう考えで言っているのかもしれず、軽々には“同意”するわけにはいかない。

 石原都知事は「自分の国の言葉を完全にマスターしない人間が、外国の知識の何を吸収できるのか」と言うが、そりゃ、吸収はできるだろうさ。問題は、なぜそんなことをしなくてはならないのか、だ。自国の言葉も満足に使えない人間を大量に生み出しておいて、なぜ、外国の言葉をそんなにありがたがって教えるのかと言いたいのだろう? そういう意味なら、おれもそう思うよ。

 また、「人間の感性や情念を培うのは国語力だ」というのは、なんの批判にもなっていない。外国語だって、感性や情念を培う。おれには日本語でしかうまく表現できない感性や情念があるし、英語でしかうまく表現できない感性や情念もある。人によっては数式や楽譜でしかうまく表現できない感性や情念もあることだろう。「人間の感性や情念を培うのに、言語は重要な役割を担っている」というのなら同意できるが、その言語が「国語」である必要は、論理的にはない。

 文部科学大臣の「日本語をしっかり勉強することが基本だが、柔軟な頭脳を持っている児童が英語に親しみ、英語教育に取り組むのは決して否定すべきことでない」というのは、至極もっともな反論だ。だが、日本語がしっかり勉強できていない学童を量産しているからこそ、あちこちから懸念の声が出ているのではないのか? 「英語を教えナイト?」で述べたように、英語教育の話ばかりするからいかんのだ。文部科学大臣にその反論のような認識があるのなら、英語教育のプランとセットで日本語教育のプランを提示すべきである。英語を早くから教えるというのなら、国語も早くからもっとみっちりやらせろ。

 「インターネットのコンテンツは9割が英語だ」に至っては、なにをか言わんやである。そりゃあ、たしかにインターネットを駆使するのには、現状を肯定すれば英語ができたほうがはるかに便利だ。だが、その状態こそが偏っていると思わんのか? この問題についても、以前、日記で書いたことがある。「事実上の世界共通語として、英語は非常にすばらしい言語であることは認めるが、たまたま母国語が英語だっただけのやつらに、でかい面をさせておくことはない」という考えは、いまも変わっていない。文部科学大臣という立場にあるのなら、「インターネットのコンテンツは9割が英語という嘆かわしい状態にあり、実利的には英語が駆使できたほうがなにかと便益が得られることも事実ではあるが、諸外国人が日本語を学んででも読みたいと思うような、日本語によるすばらしいコンテンツを質・量ともに生み出せる国民を育ててゆくべく、英語教育に力を入れると共に、よりいっそう日本語教育に力を入れてゆきたい」とでも言ってみせたらどうだ? 駐仏大使にフランス人の爪の垢でも送ってもらえ。

 ああ、まったくいらいらする。両者とも、もう一度、『窓ぎわのトットちゃん』でも読み直してはどうか? 「美しいは、ビューティフル!」だぞ。



| | コメント (7) | トラックバック (1)

2006年4月 6日 (木)

遠近両用眼鏡の未来

瞬時に焦点が変わる、液晶を使った遠近両用メガネレンズ
http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000047674,20100319,00.htm

 アリゾナ大学の研究チームは、米国時間4月4日、メガネをかけている人の視線の方向に合わせて焦点を自動的に変えられる、液晶を使ったメガネレンズを開発したと発表した。

(中略)

 しかし、従来の遠近両用メガネには弱点がある。1枚のレンズが遠くを見るための部分と近くを見るための部分に分かれていて、視野の一部が妨げられるため、近くを見るときには顔を上に向けたまま視線だけを下げなければならない。焦点距離の違う部分が視野に入るため、頭痛の原因になることもある。
 今回アリゾナ大学のチームが開発したレンズによって、この問題を解決できるかもしれないと研究者たちは言う。このレンズは、2枚のガラス層の間に、厚さ5ミクロンのネマティック液晶(分極した細長い有機分子)がはさまれた構造になっている。液晶の層には、透明電極が円形に配列されている。
 電場をかけると液晶分子が環状に再配向し、光の通過する経路が変わる。
 このレンズの応答時間は1秒未満だ。

 おおお、いいねえ、これ。そろそろ老眼がキテいるおれにとっては朗報かも。ぜひ実用にまでこぎつけて、庶民にも買える程度の価格になるまで量産してほしいもんだ。

 しかし、ここまで来るともう、眼鏡というよりは、HMDの一種と言ってもいいのではないか。つまり、AR(augmented reality)アプリケーションのひとつに、“視力補正”というのがあるにすぎないってことだろう。この新種の遠近両用眼鏡の考えかたを推し進めてゆくと、《スタートレック ネクストジェネレーション》のラフォージがかけている「バイザー」のようなものになるはずだ。あんなふうに脳に直接出力する装置ができるまでには、人間の眼に映像を出力する“眼鏡”ができても不思議ではない。それは一応光学機器と言えば光学機器なのかもしれないが、入力と出力のあいだにとてつもなくインテリジェントな情報処理を高速で行うことになるので、装着者は、レンズを通して世界を見るというよりは、眼鏡型のモニタを顔にかけて、その映像を観ているといったほうが適切かもしれない。窓のない部屋の壁に、外の景色が映る薄型モニタを窓として取りつけているようなものだ。

 その場合、眼鏡の“表側”はどうすればいいだろう? 人と会話したりするときには視線が合ったほうがいいだろうから、まるでガラスを通して話し相手を見ているかのような“装着者の眼の映像”を生成して映しておくのがいいのではないかと思うがどうだろう? 授業中やつまらない会議中など、熱心に話を聴いているかのような眼の映像を眼鏡の表に映しておけば、堂々と居眠りができる。目蓋にマジックで目玉を書いて居眠りをする方法のハイテク版だ。なんて贅沢な使いかただろう。

 この種のハイテク眼鏡の最も大きな技術的課題は、たぶん光学的側面ではなく、情報処理の速度だろう。「わっ、広場のほうからサッカーボールが飛んできた! わわっ、あと十メートルほどで顔面にぶつかるっ!」と思ってかわそうとしたときには、とっくにボールが顔にめり込んでいる……なんてことでは、危なっかしくてしようがない。実用化には、まだまだいくつもの技術的ブレークスルーが必要な気がする。研究としては、とても面白いよね。

 まあ、現在のふつうの眼鏡が、そもそもヴァーチャルリアリティー器具なんだよな。そのヴァーチャル度が、これからますます上がってゆくだけのことだ。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年4月 5日 (水)

メタキャラクター「おわんくん」

 タケヤみそのシンプルなCMを観るたびに、これを作った人は天才だと思う。あの、森光子ばかでかいお椀の着ぐるみ「おわんくん」というらしい)が軽い掛け合いをやるだけのCMだが、いつもおわんくんの声がくぐもっているところがすばらしい。あれは、ああでなくては、まったく箸にも棒にもかからないくだらないCMになってしまうのだ。

 あそこに森光子と並んで出ているのは、じつは「おわんくん」ではないのである。“「おれ、なんでこんなことしてるんだろ。でも仕事だし……」と健気におわんくんを演じようとしている中の人”なのだ。アテレコの人は、おわんくんに声をアテているのではない。あくまで“「おれ、なんでこんなことしてるんだろ。でも仕事だし……」と健気におわんくんを演じようとしている中の人”に声をアテているのにほかならない。こんな例は、ほかにありそうでないと思う。これを思いついた人のバランス感覚はすごい。

 たとえば、イベントや番組宣伝などに登場するクレヨンしんちゃんの着ぐるみがある。当然、矢島晶子が声をアテている。あのしんちゃんの声に、まるで着ぐるみの中に矢島晶子が入っているかのようにくぐもったエフェクトをかけてみたら、めちゃくちゃに珍妙だと思う。あれはあくまでクレヨンしんちゃんなのであって、見るほうの構えも“中の人などいないモード”におのずと切り替わっている建前だからだ。そういうお約束である。

 だが、おわんくんの場合、「おわんくん」という生きたキャラクターが実際にいるふりをするには、あまりにもあんまりなデザインであって、視聴者は、いったい全体どういうモードで観ればよいのか、どのようにこの面妖なキャラクターと自分の心に折り合いをつけたものか、ともすると途方に暮れる。隣に超ベテラン名女優が立っているのだから、なおのこと途方に暮れる。無理におのれを欺いて、「あれはおわんくんなのだ」と思い込もうとしたとたん、きっとしらける。そこをあのCMは、“「おれ、なんでこんなことしてるんだろ。でも仕事だし……」と健気におわんくんを演じようとしている人”が中に入っているキャラクターこそが「おわんくん」なのだ――と、あの“くぐもり声”ひとつで観る者に納得させ、観る者を“仮想のCM製作現場”というメタレベルにたちまち連れ去るのである。おわんくんの声の人が実際におわんくんに入っているはずがないのだから、理屈を考えるとおかしいのだが、その仮想こそが“おわんくんが属している世界”なのである……と、このように言語化してCMを観ているもの好きな人はほとんどいないだろうけれども、上記のようなことを、視聴者はいちいち言語化せずとも、一瞬にして悟るのだ。

 テレビのこちら側の世界とあちら側の世界を隔てる皮膜の“上”に立って綱渡りをしているキャラクター――それがおわんくんなのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年4月 4日 (火)

法のココロはのどけからまし

花見の場所1000円で売り御用
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2006/04/02/06.html

 花見の場所は売ってはいけません!花見客でにぎわう東京都台東区・上野公園で、現金を受け取り花見の場所取りをしたとして、上野署は住所不定、無職福田廣實容疑者(55)を東京都迷惑防止条例違反(座席等の不当な供与行為)の現行犯で1日までに逮捕した。
 調べによると、福田容疑者は3月29日午前10時ごろ、上野公園内で、約13平方メートルの路上の一角をホームレスの仲間と酒を飲みながら占有。訪れた花見客に1000円で譲った疑い。調べに対し、福田容疑者は「花見の宴会をやりたい人から場所を取ってほしいと頼まれた」と話している。同署などによると、花見の場所取りで逮捕されるのは珍しい。

 うーむ、なんだか、わかったようなわからんような……。ホームレスの人に現金を渡して花見の場所取りをしてもらうと、迷惑防止条例に引っかかって、花見の場所を不正に供与したホームレスのほうが罪になるらしい。公共の場所を占拠して不当な“ショバ代”を取ったのと同じという解釈になるのだろう。

 だけど、ちょっと待てよ。下っ端のサラリーマンが勤務時間中に花見の場所取りをさせられるという話はよく聞く(さいわい、おれはやったことないし、やらせたこともない。そもそも職場にそういう慣習がない)。その場合、会社は、場所取りをする社員に拘束時間応分の報酬を支払っているわけだから、その社員は不当に占拠した公共の場所を会社に売っていることになり、このホームレスのおっちゃんと本質的に同じことをしているということにはならんのだろうか? あるいは、この業務命令自体に違法性があるわけだから、業務命令は業務命令として無効と解釈され、場所取りをする社員が早退や有休を申請していないことのほうが咎められるのか?? だとしたら、場所取りの社員は踏んだり蹴ったりだよな。

 考えれば考えるほど、なんだかよくわからん。法律に詳しい人、どう思います?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年4月 3日 (月)

意識しないと食べすぎてしまう

 丸山和也弁護士のブログ(2006年4月1日「食生活」)に、「今の日本人は基本的に食べすぎだと思う」という端的な指摘があった。おれもそう思い、以前に『「腹八分目」というのは身体に悪いのではなかろうか?』などと、ヒネた言いかたで私見を述べたことがある。あれは半ば以上本気である。おれは、とてもじゃないが、「1日2食から2.5食をずっと続け」ながら、時に百キロ走ったり、しばしば冬の川で泳いだりしているような鉄人ではないけれども、丸山弁護士のような生活をしてもべつに死にはせん……どころか、人一倍丈夫に過ごせるものなのだなと、妙に納得した。

 現代では、“ふつうに”食うと、食いすぎになってしまうんだろうなあ。“ふつう”の基準がずいぶん高いところに行ってしまっている。たとえば、マクドナルドで、百円のマックチキンを一個食ったとする(例が悪いか)。388キロカロリーである。二個食ったとする。776キロカロリーである。小ぶりのコンビニ弁当くらいの高カロリーだ。たった二百円で、これだけのカロリーが取れてしまうのだ(なにを隠そう、おれはしょっちゅう「マックチキン二個」の昼食を摂る)。まあ、栄養バランスということも考えねばならないが、単純にカロリーだけ考えるとすると、現代ではエネルギー源を摂取するのは、ことほどさように低コストで簡単なのである。“ふつうに”食っていたら、絶対摂りすぎになる。それだけの運動をしていればいいだろうが、たいていの人はそんなに運動できない。時間がない。意志が続かない。

 よって、現代では「いささか腹が減っているなあ」と感じるくらいをキープしたほうがいいのではないかと、最近とくに実感するのである。人間、ハングリー精神が大切だ……というのは、あまりにも古典的なオチだけど。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年4月 2日 (日)

論理的な男

女性を殺人未遂容疑、出頭の男逮捕 川崎・小3転落死
http://www.asahi.com/national/update/0401/TKY200604010237.html

 「新聞を見て、捕まると思った」……妥当な推論だ。
 「殺したかったから投げ落とした」……妥当な推論だ。
 「最上階の15階から人を落とせば殺せると思って行った」……妥当な推論だ。
 (2人の被害者には)「申し訳なかった」……妥当な反応だ。

 この男は、なにもおかしなことを言ってはいない。おれたちSFファンにとっては、この男の反応は、じつに馴染み深いものである。ステロタイプの人工知能の受け答えにそっくりだ。推論自体はまちがっていないのだ。唯一、おれたちと前提条件を共有していないだけである。動機については、本人が「私もよく分からない」と話しているそうだが、あんたにわからんものはおれたちにもわからないよ。

 おれは、生物というものを、人間も含めて、とてもよくできた貴重な機械だと思っているが、この男は、日常会話に於ける慣用表現的な意味で、まるで機械のようだ。お粗末な機械である。どういうプログラミングを施されるとこういうふうになるのか、非常に興味が湧く。

 息子を機械に殺された両親は、こうした供述(というか、音声出力)を聞いて、どんな思いをしていることであろうか? いまこうしているあいだにも、こんなプログラムを内蔵したロボットたちがどこかで大量に生産され、ザッザッザッと足並みを揃えておれたちの社会へ続々と“出荷”されている不気味な光景が、とてもリアルに浮かばないか?

 もっとも、おれ自身がそうしたロボットたちの一体であることが、おれにはわかっていないだけなのかもしれないのだが……。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年4月 1日 (土)

今月の言葉

ご注文をいただいてからトリップします

 お持ち帰り用のトリップバッグの場合は、粉に少量のお湯を注いで二十秒ほど蒸らしたりするようなことは絶対にせず、乾いたままの粉を巻いた紙幣などで一気に鼻から吸い込んでください。通販用のトリップバッグもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年3月 | トップページ | 2006年5月 »