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2006年3月 9日 (木)

妖精を見るには 妖精の目がいる

2005年後半から2006年初頭にかけての事件と情報教育の関連に関するコメント(情報処理学会)
http://www.ipsj.or.jp/12kyoiku/statement2006.html

 情報処理学会情報処理教育委員会では、わが国の情報教育の現状に危機感を抱き、2005年10月29日に「日本の情報教育・情報処理教育に関する提言2005」(以下「提言」と記す)を公表した。この提言には、現在の「情報処理と情報システムの原理に対する理解の欠如」がわが国社会にどのような悪影響を及ぼしているかの議論が含まれているが、はからずも提言が公開された後、まさにこの「理解の欠如」が原因の1つと思える事件が相次いで起こっている。

(中略)

 我々が情報教育・情報処理教育において目指すものは、日本国民全体が次のことをきちんと納得し理解することだと言える:

コンピュータは道具であり、人間が設計したことを、その能力の範囲内で、設計されたとおり正確に行うだけである。従って、設計した人間が間違えばコンピュータは正しくない答えを返すし、能力を超えたことをさせようとすれば動かなくなる。

 簡単なようだが、これを単に話として聞くだけでは身につかない、だから実際にコンピュータの原理に接して身をもって納得する必要がある、というのが提言の中核をなす考えである。

 二十年前の話ではない。これはつい先日発表された文書なのだ。これだけコンピュータに依存した社会を作り上げておきながら、わが国は、まだこんなことを学会がコメントしなければならないような状況であるらしい。この文書にも触れられている「日本の情報教育・情報処理教育に関する提言2005」も、真面目に受け止める必要がある。

 不思議なことに、たとえば、テレビのニュースで誤報が流れて社会が混乱しても、アンテナやら受像機やらなにやらといったテレビ放送送受信のための機器が悪いとは誰も思わず、まあ、誰もがテレビ局が悪いと捉えるはずなのに、ことコンピュータが絡む事件だと、「コンピュータが悪い」ですませてしまう人がいたりする。

 家庭の電気製品が突然ことごとく動作しなくなると、「お向かいさんちは灯りが点いている。ウチがいっせいに電気を使いすぎてブレーカが落ちたのだろうか」と、たいていの人は推測するだろう。あるいは、冬の寒い日に蛇口から水が出ないと、「水道管が破裂したのかもしれない」と推測できる“リテラシー”を誰もが身につけている。なのに、これらと同じくすっかり社会インフラとなっているコンピュータに関しては、知っている人だけが知っている、知らない人はほんとうにみごとになにも知らなくてよいといった社会通念が形成されてしまっている。これはまずい。「電気を一度に使いすぎると、安全装置が働いて通電が遮断されるようになっている」という知識は、電気の専門家でなくともふつうの大人なら誰でも持っているはずだが、情報インフラの中核を成すコンピュータに関しては、それに等しいレベルの認識すらまだまだ浸透していないのだ。

 「コンピュータは道具であり、人間が設計したことを、その能力の範囲内で、設計されたとおり正確に行うだけである」などと言われると、「バカにするな。その程度のことは知っとるわい」と失笑したり怒ったりする人は少なくないはずである。だが、誰もが知識として持っているはずの“その程度のこと”が、じつはよく“わかって”はいない人がたくさんいるのだと判断せざるを得ない事件が繰り返し起きているのが実態なのだ。

 Word やら Excel やらといったアプリケーションソフトをブラックボックスとして操作できるようにする類の教育とはまったく別の次元で、コンピュータに“ないものねだり”をしない健全な判断力を養う教育がぜひ必要だろう。むかし、「うちのお父さんは、ピンクレディーがテレビに出てくると、テレビの前で姿勢を低くしてスカートの中を覗こうとします」などという笑い話があったのだが、これが笑い話として成立するのは、誰もが“テレビとはどういうもので、なにができて、なにができないか”という認識を共有しているからこそである(まあ、実際に、姿勢を低くすればピンクレディーのスカートの中が覗けるテレビも、作れないことはないところまで来てはいるが……)。コンピュータに関しては、“ピンクレディーのスカートの中を覗こうとしている”人やら組織やら社会の仕組みやらが、まだまだあちこちにごろごろ存在している段階だと言えるだろう。文部科学省はもちろん、さまざまな立場の教育関係者も、情報処理学会の提言に耳を傾けるべきだと思うぞ。

 じゃあ、具体的にどんな教育をすればいいのかは、識者がじっくり検討してくださればよいが、じつはおれが勝手に考えていることがふたつある。おれにもし子供がいたら、すでにやらせているだろう。

 まず、小学校低学年くらいで、子供に算盤の基礎をやらせる。なにも実用になるほどの腕前にする必要はない。サワリだけちょいちょいとやって、「こんな簡単な仕組みの道具なのに、簡単なルールに則って機械的に珠を弾いてゆくだけで計算ができるんだあ」と子供がわかればそれでよい。おれたちが小学生のころには、まさにそういう教育を算数の時間に受けた。いま思えば、のちにあれはコンピュータの理解(ついでに言えば、分子生物学の基礎の理解)に感覚的にたいへん役立った。フォン・ノイマン式コンピュータは、早い話が、大規模な“高速一つ珠算盤”にすぎない。

 次に、ドミノ倒しをやらせる。ひたすらやらせる。おれたちの子供のころは、将棋の駒でよく将棋倒しをやって遊んだ。あれは、人生に必要ないろいろなことが学べる、じつに教育的な遊びである。コンピュータのプログラムは、早い話が、“手の込んだドミノ倒し”にすぎない。

 算盤とドミノ倒し、これだけである。コンピュータの教育だなどと子供に知らせる必要すらないだろう。これらふたつの体験をさせることは、最低限度の情報処理教育におのずとなっているのではないかと思うのだがどうか。



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