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2006年2月19日 (日)

死骸を食うこと

 いま、焼きうるめいわしを食いながら、いいちこのお湯割りを飲んでいる。おれの母なんぞは魚が嫌いで、とくに生きているときとほとんど同じ形をした魚は絶対に食べられない。そのくせ、エビやらカニやらは、どう見ても虫みたいなおどろおどろしい形をしているのに、平気でばりばり引き裂いて食う。好き嫌いというのは不可解なものである。

 そこで、ふと考えた。おれたちは基本的には、動植物を問わず、ほかの生きものの死骸や組織の一部を食っている。食わないと生きてゆけない。だが、いずれは食物をすべて人工的に作り出せる技術を持つだろう。必要な物質を組み合わせて、“天然もののマグロよりもうまくて栄養価の高い、天然もののマグロの組織の一部を模した(というか、そのものである)肉片”を作り出したりできるようになることだろう。

 さて、そのような技術を手にしたとき、人はほかの生きものの死骸を食わなくなるだろうか? つまり、ブツとしては、天然の中トロと人工の中トロは、その組成も構造もまったく同じもの、いや、それどころか、人工の中トロのほうが食品としては上質であり汚染物質も含まれていない……という世の中になった場合、わざわざ生きものを殺して食うことをしなくなるだろうか、という疑問なのである。

 おれが思うに、たぶん、それでも人間は生きものの死骸を食いたがるだろう。食いたがる人間が残るはずだ。せっかく同じものが人工的に作れるようになっているのに、「天然ものは、やっぱりちがう」とかなんとか言って、天然ものに対する信仰を全うしようとする人種は根強く残ると思う。どこがどうちがうのか、すでに人間の感覚では判別できなくなっているというのに。食いものに限らず、人格を認めてもよいほどの“強い人工知能”が出現するなどしたとしても、きっと「天然ものが上」という信仰は残るだろう。これは科学技術の問題ではない。文化人類学の問題である。

 もっと極端に考えを進めてゆくと、人類が種として滅びずに、知性として大成功し、いずれは“宇宙をも作り出せる”技術を持ったとしても、やっぱり「これだから“養殖もの”の宇宙に生まれた知性はいけねえ。人情の機微というものがわかってねえ」などと言い出すやつは、やっぱり残っているような気さえするのである。

 もっとも、生きものを殺さずとも食物を完全に人工的に作り出せる技術を人類が持ったとしても、あえて生きものの死骸を食べ続けるべきだという思想が成立する可能性もある。生きものの死骸を食うことによって、自分たちを生み出したこの宇宙への繋がりと感謝の心を保持すべきであるといった思想だ。それもアリだろうとは思う。その場合、天然ものにこだわるということは、根拠のない保守反動思想ではなく、自分たちのありかたを積極的に選び取る文化、思想として尊重されるべきだと思うのである。「こうしてご飯が食べられるのも、ほかの生きものが死んでくれたおかげだ」と常に意識しているのは、存外に大切なことではないかという気がするのだ。





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 昨夜は、ひさびさにサンマを食った。あとは、焼き豚とサラダ。サンマの右下あたり [続きを読む]

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