ハロルド・ピンターとSFの接点
アマゾンで検索してみて愕然とする。ハロルド・ピンターの邦訳が一冊もヒットしないのだ。そりゃまあ、もともと日本で単行本がぽんぽん出るような劇作家ではないが(イギリスでは押しも押されぬ大御所なのに)、本邦の決定版であったはずの『ハロルド・ピンター全集』(全三巻/喜志哲雄・小田島雄志・沼澤治訳/新潮社)がなくなってしまっていたとは……。いまごろ、新潮社では大あわてで復刊の準備をしているにちがいない?? ノーベル賞受賞を機会に、文庫化は無理としても、軽装版くらいは出してもらいたいものだ。“全集”といっても、主な戯曲だけを収録していて、小文の類まで網羅したほんとうの“全集”ではない。
じつは、SFファンの人は、『ハロルド・ピンター全集』の書評を一度は目にしている可能性が高い。さすが筒井康隆、『みだれ撃ち瀆書ノート』で取り上げているのである。と思ったら、『みだれ撃ち瀆書ノート』自体が、『筒井康隆全集』以外では入手しにくくなってしまっている。ああ、昭和は遠くなりにけり。
なら、これならどうだ――『遊星よりの昆虫軍X』(ジョン・スラデック/柳下毅一郎訳/ハヤカワ文庫SF)に、一箇所だけちょこっとピンターの名前が出てくる(;^^)。だからって、どうということはないのだが……。まあ、訳者名を見れば「この本は特殊です」と帯がついているようなものだとわかるし(笑)、若いSFファンは読んだことないかもしれない。哀しいかな、この本も新品では入手しにくいようだ。この本には未発表の「訳注」という労作があって、ありがたいことに、いまも柳下毅一郎さんのサイトで公開されている。この訳注に出てくる「ピンター調」というのは、おれは『遊星よりの……』の原文を読んだことないけど、あきらかに Pinteresque の訳だろうとわかる。Pinteresque なんて言葉が定着しちゃうくらいに、「ピンター劇みたいな、あんな感じ」ってのが、少なくとも、多少は英文学の教養があるイギリス人には通じるほどには(アメリカ人はどうかわからん)、人口に膾炙しているわけである。
あと、ピンターの「背信」(これは新潮社の全集が出たあとの作品だから、当然全集には入ってない)の本邦初訳が掲載されたのは、かの名雑誌、中央公論の〈海〉(1979年10月号)なのである。これもまた有名な、塙嘉彦編集長の時代だ。このころといえば、〈ユリイカ〉やら〈カイエ〉やらがラテンアメリカ文学を集中的に紹介していた時期であり、このころの塙編集長と筒井康隆との親交が、その後の筒井文学の方向性に大きく影響したことは、筒井が書いているとおり。これはよくわからんのだけど、〈海〉にピンターの戯曲の翻訳なんかがいきなり載ったのは、はたして塙編集長と筒井康隆との親交になんらかの関係があったのか、たまたま塙氏の眼力の指向性が、筒井康隆の好みにも合っていたのか、さて、どうなんだろう?
というわけで、おれの思いつくかぎりでも、SFとピンターの接点はこんなにあるのである(無理やりだけどな)。
ハロルド・ピンターをこの機に知った方は、ぜひ一度、古本を入手して読んでみていただきたい(まあ、新潮社はたぶんなんらかの手を打つとは思うけど)。
ピンターの世界ってのはどんな感じなのかってのを、SFファンに端的にわかりやすいように表現するとすれば、「安部公房が小林泰三の会話文で書いたような感じの芝居」ってのが、おれ的にはいちばん近いと思う。“おもろこわい”とでも言おうか。マジな話、小林泰三作品の登場人物のやりとりは、すぐれて Pinteresque だ。それほどに、おれは小林泰三の、奇妙に歪んだ、論理と人間の関係性とがすれちがいながら跛行してゆくような会話文、会話しているようなふりをしつつ、じつは全員がひとりごとを言っているような会話文を、高く評価しているのである。
ま、アレだけどね、ちょっと社会性に問題を来たしはじめているほどに重度の、分野の異なるオタク同士の会話ってのは、傍で聴いていると、かなり Pinteresque だよ(笑)。
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