暗黙知
今日はたいしてネタもないので、近年気になっていることをぼやく。
どうも、いつのころからか“暗黙知”という言葉が気色の悪い使いかたをされるようになっているのである。ナレッジマネジメントとやらがふつーのビジネス用語になってしまったあたりから、なにやらヘンになっている。どうやら、ナレッジマネジメントの伝道師(?)野中郁次郎が諸悪の根源らしい。
たとえば、「2007年問題を乗り切るには、団塊の世代の暗黙知をいかに形式知として表出し、若い世代に伝えるかがポイントだ」みたいな使いかたを、ビジネス雑誌やなんかでは平気でするわけである。おいおい。そもそも原理的に表出できないから暗黙知なのとちがうのか? おれも恥ずかしながらニューアカが流行ったころにはいろいろな思想書を読み漁ったものだが、少なくとも、おれがマイケル・ポランニーを読んだかぎりでは、暗黙知というのは、「(面倒くさいので)いまだマニュアルとして整理されていないベテラン職業人のコツ」といったようなしょーもない意味ではなかったと思うのだが。
口にしようと思えばできるけど口にされないままになっている知識なんてのは、(verbally) inexplicit knowledge なんであって、ポランニーの tacit knowledge とはぜーんぜんちがうものでしょう。暗黙知という言葉の意味をねじまげて、あまつさえ、本家より日本に広めてしまった野中郁次郎は、犯罪的ですらあると思う。“隠匿知”とでも言っておけばよかったのに。
そういう軽〜い意味で、「暗黙知を形式知に変換することがぁ……」なんてワケ知り顔で言ってるおじさんを職場やら講演会やらで目にすると、なんか妙にムカつくのである。「不確定性原理というのは、現存の観測機器の精度がまだまだ低いために、素粒子の位置と速度が同時に決定できないという原理である」などと言われているような気がするのだ。
で、本来の暗黙知はどこへ行ってしまったのかというと、どうも最近では、その一部が“クオリア”とかいう、これまた掴みどころのない言葉に吸収されちゃってるような感がある。クオリアすなわち暗黙知じゃないけど、なんか相当重なっている部分があるような気がするのよな。重なっているような気がするのは、おれの理解が浅いせいなのかもしれないが、やっぱりそんな気がするのである。赤い色が“赤い感じ”がするのは、コードで表出不可能な、“赤い感じ”っていう知識なんじゃないのかな? うーむ、なんかようわからん。
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