2008年5月15日 (木)

『おろち』にしばじゅん……異議なし

柴田淳、映画『おろち』で初の映画主題歌担当 (Yahoo!ミュージック 音楽ニュース)
http://music.yahoo.co.jp/music_news/d/20080514-00000016-bark-musi

女性シンガーソングライター柴田淳の歌う「愛をする人」が、今秋公開予定の木村佳乃主演映画『おろち』(楳図かずお原作/鶴田法男監督)の主題歌に決定した。柴田が映画主題歌を担当するのは、今回が初めて。以前より柴田の楽曲のファンであった鶴田監督からのラブコールを柴田が快諾したことで実現した。
柴田自身、楳図作品については以前からファンを公言するほどで、今回主題歌を担当するにあたり、台本を熟読。映画の世界観に合った楽曲を書き下ろした。主演の木村佳乃とは、昨年12月、柴田が東映大泉撮影所を見学に訪れた際に対面したという。2人とも1976年生まれの同い年ながら、柴田は木村に会った感想を、「テレビで見ててももちろんキレイなんだけど、実物は、数百倍キレイ。同い年には思えなかった」と自身のブログに綴っている。

 ああ、これはなんだか、すげーわかるなあ。おれが『おろち』を映画化しなきゃならん監督だったとしたら、やっぱり柴田淳を指名するにちがいない。その主題歌ってのは、まだ聴いたことがないけれども、これはもうドンピシャリだろうな。「紅蓮の月」を初めて聴いたときに抱いた、情念と狂気を冷徹に見つめているようなもの哀しくもホラーな印象は、なにかに通ずるとは思っていたんだが、そうかー、楳図かずおだったかー。言われてみれば、とてもわかる気がする。

 こりゃやっぱり、今度のアルバムも予約しとくとするか。どのみち買うだろうけどなあ。

 主演に木村佳乃って人選もすばらしい。もう二十年早かったら、おれが監督なら真行寺君江にしたかもしれないが(笑)、いまなら木村佳乃で文句ない。鶴田法男監督は、やはりほとんど同世代だけに、おれたちと感性が似ているのかもしれん。貞子仲間由紀恵を持ってきた監督だしねえ。

 ちなみに、柴田淳は、記事にもあるように木村佳乃と同い年であるが、誕生日はジョディ・フォスターと同じ(11月19日)である。だからどうということもないのであるが、まあ、林家ペー的興味だ。



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2008年5月14日 (水)

世界のナベアツにやってほしいこと

 



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2008年5月13日 (火)

テロリストを「アホ」と呼んで、なにが悪いものか

松本人志が硫化水素自殺で「放言」 「アホが死んだら別に俺はええねん」 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2008/05/12019982.html

 はて、松本人志の発言のどこがどう問題なのか、おれにはさっぱりわからないよ。あえて松本発言に文句をつけるとするなら、硫化水素で自殺しようなどというやつを単に「アホ」と呼ぶのは生ぬるい。あれはアホどころではなく、先日も書いたように“テロリスト”なのである。自分が死ぬという目的のためであれば、無関係の人が巻き添えになってもかまわぬと考える程度の人間なのだ。「アホ」程度ですんだら上等である。

 おれは、どうしても死にたいという人に死ぬなとは言えない。おれの知っている人が自殺したいと言えば、そりゃあ絶対止めるが、おれが顔も知らない不特定多数の人に、生きているほうが絶対いいなどと自分の価値観を押しつけるわけにはいかない。ずいぶん前に、『せっかく生きてるのにわざわざ早めに死ぬなんて、生きたいのに死ななければならない人に失礼きわまりない。「失礼でもなんでも、私はどうしてもいま死ななければならないのだ」と判断したのなら無理に止めたりはしないから、せめてできるだけ人に迷惑をかけないように死んでほしいものだ』とおれは書いたが、いまでもまったく考えは変わっていない。だって、どうしても死にたいと思っている人のほうだって、どこの馬の骨とも知れぬおれなどに「とにかく死んじゃだめだ」などと型どおりの陳腐な説教などされたくないだろう。大きなお世話である。

 だから、おれはおれに関係ない人が死にたがろうが生きたがろうが無責任に口は出さん。人にはそれぞれ事情というものがあろう。はたして、この宇宙で生き続けることが賢明な選択なのかどうか、おれ自身、ときどき疑問に思うことがあるのは事実である。おれが生き続けているのは、単に「せっかく生きてるのにもったいない」という貧乏性のなせる業かもしれん。

 だけど、何度も言うが、どうしても死なねばならんというのなら、せめて、せめてできるだけ人に迷惑をかけないように死になさい。どうもおれは日本人の多数派の心性を身につけ損ねたのか、死者に鞭打つことをなんとも思わん。鞭打たれてもしようがないような死者であれば、いくらでも罵ることにしている。死んだらなにもかもすむと思うなよ!

 考えてもみろ、ただたまたま本人も死んだというだけの些細なことを理由に、不特定多数の、生きたい、生きようとしている人々にテロを仕掛けたやつに、なんで同情せねばならんのだ。本人が死んでいるだけに、余計腹が立つ。許し難いやつに対して反射的に出てくる「死ね!」という罵倒が通じないのだから、忌々しいことおびただしい。

 もっと科学技術が進めば、安部公房グレッグ・イーガンが書いたように、死んだ人間の脳を一時的に強引に機能させるようなことができるようになるかもしれん。そうなれば、硫化水素でテロを仕掛けて死んだやつの脳を無理やり機能させ、いちばん苦しいところで寸止め(?)にして、発狂するまで生かしておくという“死後刑罰”を作ればよいと本気で思っている。そのような刑罰が可能になれば、自分が死ぬついでに不特定多数の人間が死んでもかまわぬなどと考える憎むべきテロリストに対する大きな抑止力となるだろう。



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2008年5月11日 (日)

ご家庭でも出せる船場吉兆の味

 日曜の夕刻も迫ると、長年の条件反射で日本国民の頭の中に勝手に流れる歌がありますわな。あの歌に関して、おれには子供のころから抱き続けている疑問がある。
 
 「♪お魚くわえたドラ猫 おっかけ~て 裸足で駆けてく」のはいいのだが、もしも猫の捕獲に成功してしまったとしたら、サザエさんは奪還した魚をどうするつもりだというのだろう? なに食わぬ顔で料理して、家族の食卓に並べるつもりなのだろうか?

 もしかしたら、そういうのは必ずマスオさんに出すことにしているのかもしれん。



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2008年5月10日 (土)

天然ウナギイヌ

爬虫類+鳥類+哺乳類=カモノハシ? (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0509/TKY200805090094.html

 オーストラリアに生息する哺乳(ほにゅう)類のカモノハシは、アヒルのようなくちばしをもち、卵を産むが、体は毛で覆われ、母乳で子どもを育てる。この「世界で最も奇妙な哺乳類」のゲノム(全遺伝情報)を英米豪や日本の理化学研究所の研究員らでつくる国際チームが調べたところ、遺伝子も哺乳類、爬虫(はちゅう)類、鳥類の「パッチワーク」のようになっていたことがわかった。8日付の英科学誌ネイチャー(電子版)に発表した。
 約100人の研究チームが、カモノハシのメスの約1万8500個の遺伝子を調べたところ、オスのつめにある毒はヘビなどの爬虫類と同じたんぱく質だった▽性の決定にかかわる遺伝子は鳥類に似ている▽哺乳類の特徴である母乳をつくる遺伝子がある、といった特徴があった。研究チームの欧州生命情報学研究所のユアン・バーニー氏は「カモノハシは見た目と同じく、遺伝子も奇妙に混ざっていた」とコメントしている。
 進化の過程で、哺乳類が鳥類、爬虫類と共通の祖先から分かれたのは3億1500万年ほど前。カモノハシは約1億7千万年前にヒトと共通の祖先から分かれたが、鳥類、爬虫類の特徴を持ち続けたと考えられる。英オックスフォード大のクリス・ポンティング氏は「カモノハシのゲノムは、ヒトなどの哺乳類がどのように誕生したのかを探るうえでのミッシング・リンク(鎖の環(わ)の欠けている部分)だ」と指摘している。(香取啓介)

 結局、研究者も言っているように“見たまーんま”だったんだなあ。なんか、安心したと同時に、生物の驚異に改めて感じ入ったよ。よくこんな中途半端なやつがいままで生きてこられているもんだが、そこがやっぱり、オーストラリアやニュージーランドあたりの面白いところだよなあ。

 おれが前から不思議でしようがないのは、有名なカモノハシの生体電流感知能力である。あのクチバシにある感覚器で、餌になる小動物のきわめて微弱な筋電位による電場の変動を感知し、視覚がまったく役に立たない水中の泥の中でも獲物を捕えられるのだという。この進化の迷い子は、そのような能力を、遺伝的にはいったいどこから持ってきたのだろう? カモノハシになってから獲得したのか? 以前からゲノムに持っていたコードを、なんらかの形でカスタマイズして使いまわしているのか? 魚類には電場を感知する能力を持っているものは少なくないし、鳥類には磁場に敏感なものがいる。もっと下等な細菌にも、走磁性を持つものがあったよな。

 おれはなんの証拠もなく勝手に面白い方向に想像しているだけなのだが、カモノハシの電場感覚器は、ひょっとすると鳥類の磁場感覚器と遺伝的な起源を同じくしているのではなかろうか? なーんとなく、そんな気がしませんか? 「あ、DNAのこのへんのコーディングは、ちょっといじれば水中で電場センサーとして使えるやん!」などとカモノハシが考えたわけじゃもちろんないだろうが、突然変異と自然淘汰が結果的にそのようなカスタマイズを促したのやもしれない。鳥類は“それ”を地上での磁場センサーとして進化させ、カモノハシは“それ”を水中での電場センサーとして進化させた……んだとして、その“それ”が特定されたら、さぞや面白かろう。

 いやまあ、おれの言ってることは、あくまでワイルドな想像だけに頼った与太にすぎないから、こういうところをこそ分子遺伝学や分子進化学が科学的に解明してくれて、おれたち素人の酒の肴を増やしてくれるのを楽しみにしているのだ。

 それにしても、おれたち“ふつうの哺乳類”は、どうして電場や磁場に対する感覚を捨てちゃった(とも言い切れないけれども)んだろうねえ? 方向音痴のおれとしては、たいへんもったいないと思う。もっとも、そんな感覚を人間が持ったままでいたとしたら、エレクトロニクスの進歩は大幅に遅れたんじゃないかな? いや、あるいは、もっと速く進んだろうか? みんなが生まれつきファラデーやフレミングなのだ。

 まあ、いまのおれたちに、なにかの弾みで、突如、電場感覚や磁場感覚がよみがえったとしたら、“うるさくて”とても生活していられないにちがいないだろうけどねえ。



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2008年5月 8日 (木)

『A Long and Winding Road』(Maureen McGovern/P.S. Classics)

 押しも押されぬ“ストラディヴァリウス・ヴォイス”モーリン・マクガヴァンの懐メロカバーアルバム。六○年代から七○年代にかけてヒットした、アメリカ人なら誰でも知っているようなオヤジ世代の青春の名曲を、モーリン・マクガヴァンが非の打ちどころのない歌唱力で聴かせてくれる。アレンジもグー、グ、グーな大人の一枚である。

 その歌唱力がジャンルを選ばないというか、その人が歌うとジャンルのほうに箔が付くくらいの、シンガーにとっての“大自在の境地”というのは、アメリカならモーリン・マクガヴァンのために、わが国なら美空ひばりのためにあるような言葉で、いや、このアルバムでまたまたモーリン・マクガヴァンに惚れ込んじゃいましたねえ。

 ジョニ・ミッチェルジミー・ウェッブローラ・ニーロボブ・ディランポール・サイモンといったラインナップは、じつのところ、おれの世代ではあとから追いかけた古典であって、リアルタイムの思い出に刻まれているわけではないのだ。ジョン・レノンポール・マッカートニーくらいになると、自分史のアルバムにBGMとして流れてくるけどね。とはいえ、どの曲も、洋楽ファンならどこかで聴いたことがあるようなものばかり。SFファン的には、The Moon's a Harsh Mistress なんてのも楽しい。曲のほうをハインラインの小説のあとに知りましたけどね。

 おれはたぶん、歳のわりには、自分にとってのリアルタイム以前の洋楽懐メロを意識的に聴いているほうだと思うから(カーペンターズ小林克也のおかげだ)、モーリン・マクガヴァンの声で懐メロが聴けるこのアルバムにはゴキゲンなのだが、本来は、日本に於ける“団塊の世代”にとってこそ、このアルバムの選曲はストライクゾーンなのだと思う。

 いやしかし、モーリン・マクガヴァンという歌手はすばらしいですなあ。たいていの歌手は、“おいしい”音域とあまり得意でない音域があるもんだが、モーリンにそんなものはない。どの音域も完璧。ストラディヴァリウスと讃えられるゆえんである。むかしのフォーク風から、堂々たるバラード、遊び心たっぷりのジャジーなアレンジまで、それが“歌”であるかぎり唄えないジャンルはないのではないかと思う。ビートルズ・ナンバーの Rocky Raccoon は、とくにすごかった。

 若い人にはピンと来ないとは思うが(でも、いいもんは年齢に関係なくわかる)、四十代後半以上の洋楽ファンには、涙がちょちょ切れるアルバムでしょう。それにしても、日本のレコード会社は、なんでこういうのを出さないのかねえ。これからの時代は、音楽産業もおじさん・おばさん、爺さん・婆さんがターゲットなんじゃないの?

【収録曲】All I Want/America, The Times They Are a-Changin', The Circle Game, The 59th Street Bridge Song (Feeling Groovy), Cowboy, The Coming of the Roads, Will You Still Love Me Tommorow?, Shed a Little Light/Carry It On, The Fiddle and the Drum, Fire and Rain, Rocky Raccoon, Let It Be, By the Time I Get to the Phoenix, MacArthur Park, The Moon's a Harsh Mistress, And When I Die, Imagine, The Long and Winding Road



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2008年5月 6日 (火)

物騒な検索語

 う、うーむ……。これはどう解釈すべきだろう。《ヘンな検索語》といえば《ヘンな検索語》なんだが、ヘンというより、物騒というか……。

「硫化水素で自殺しよう」

 まあ、興味本位の検索だろうとは思うのだが、もし万が一、本気でその方法を探して検索し、たまたまここにやってきたのだとすれば、あなたはこの前のエントリーを読んだことだろう。テロリストとして憎まれて死にたいか?

 できれば死ぬのもやめたほうがいいが、どうしても死にたい、死なねばならぬというのなら、無理には止めないし、おれにはそもそも止められない。それはあなたの自由である。とにかく、その方法だけはやめなさい! 巻き込まれて死んだり障害を負ったりするかもしれぬ“どこかの誰か”は、あなたになにかひどいことをしたのか?



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2008年5月 5日 (月)

硫化水素自殺対策に関する控えめな提案

 最近やたらむかついているのが、硫化水素による自殺である。そりゃまあ、自殺するのは、この際、個人の自由であるとしよう。するなとは言わん。おれは牧師じゃない。ここでは、専らその方法のみを問題とする。

 気体の硫化水素を発生させて自殺しようとする場合、当然、本人はそれがたいへんな毒ガスであることを知っているわけである。つまり、不特定多数の無辜の市民が、ことによると巻き込まれて、死んだり障害を抱えたりすることになると知ったうえでそのような毒ガスを発生させ、おのれの目的のみを果たそうとしているわけだ。手前の都合だけしか考えていない。同じ死ぬにしても、もう少し他人に迷惑のかからん方法がありそうなものだ。まあ、人が死ぬということは、どんな死にかたであろうが自動的に他人になにがしかの迷惑がかかるものなのであるが(かからない方法があればどんなにいいだろう)、よりによって、他人も巻き込まれて死ぬことを織り込んで、自分勝手に死ぬことはなかろう。これは、未必の故意による殺人あるいは傷害である。“死ぬ”というおのれの目的のためであれば、関係のない人がどうなろうとかまわんという思想がベースにある。要するに、自爆テロといささかも変わらん。

 しかし、自暴自棄で死ぬ気になっている人間に対して、「それは人としてどうか」などと難詰したところで詮ないことである。本人は、自分が死ねさえすれば、人がどうなろうと知ったことではないという心境なのだろう。その自分勝手さに腹が立つというのは、大方の人が共有する心境なのではなかろうか。だが、おれたちがいくら腹を立てようと、硫化水素で死にたいやつは、自分勝手に死ぬのである。

 となると、そうした死にかたを抑止する(死ぬのを抑止するのではない)方法としては、まず、死後に罰するという方法が考えられる。たとえば、未必の故意による殺人あるいは傷害を見込んで硫化水素で自殺した者には、死後、遺体、いや、死体を全裸で河原に晒しものにしてカラスやらについばませるに任せ、往来の人々は暇潰しに石を投げたり棒でつついたりチンポコを切り取って犬に食わせたりオマンコにアイスキャンディーの棒を突っ込んだりしてもよいことにし、葬儀も出させず、本人についての一切の記録を抹消し、そんなやつは最初からこの世にいなかったことにするくらいの死後刑罰を科すといった方向もあろうが(“市中引き回しのうえ獄門”みたいなもんだ)、他人が死んでもかまわぬという心持ちで自分が死にたいと思っているくらいのやつになら、自分の死後の扱いがどのようになろうがまったく意に介さぬというやつも少なからずあろうから、死後にひどい扱いをしてやるという刑罰がどの程度危険な自殺に対する抑止力になるかは疑問である。

 むろん、自殺などしないに越したことはないが、ここでは、他人を巻き込んでもかまわんと考えて自殺する身勝手なやつはけっしていなくなりはしない、いや、ことによるとどんどん増えてくるやもしれぬとして、冷徹に考えることとしよう。

 じゃあ、そうした自殺そのものが阻止・抑止できないのであれば、どうしたらよいのか? 本人が死のうとすることは避けられぬとした場合、最優先で考えるべきことは、無関係の人々が巻き添えになるのを防ぐことである。

 とすると、硫化水素で死にたがっている人々に、せめて他人を巻き込まぬよう、“安全に死んでもらう”方法を提供するしかあるまい。つまり、ガスが漏れたりせず、自殺志望者だけが安全に死ねるような設備を提供するという方法が考えられる。いわば、個人用の公衆ガス室だ。自殺志望者のみが確実に死ね、換気や通報の機能によって、無関係の人にはまったく危害を加えない公共の施設を用意してはどうか?

 ここまで書くと、似たものがすでに実在するのにお気づきになるだろう。そう、“赤ちゃんポスト”である。あれは、望まぬ赤ん坊を産んでしまった人々に対して、嬰児を殺害するくらいであれば、このポストに“投函”して命を救ってくださいというものだ。だったら、どうしても硫化水素で自殺したい人に対しては、「無関係の人を巻き添えにして殺したり障害を負わせたりするくらいなら、どうぞこの設備であなただけが安全に死んでください」というコンセプトの公共施設があってもいいのではなかろうか。これを“自殺ボックス”とでも名づけよう。赤ちゃんポストも自殺ボックスも、望まずして命を危険に晒される人々を救うためのものである。なにか問題でもあるだろうか?

 いまの日本は、自分の力でなんとか生きていけないような、能力のない人間、不運な人間、弱い人間、不健康な人間、老いた人間は、とっとと死んでくれたほうが国のためであるという国策を推し進めている国家である。だったら、おれの提案する自殺ボックスを実現するのに、なんの不都合もあるまい? おれの論理になにかおかしなところがあるか、福田さん? 硫化水素で自殺しようとしている四十代のニートが、日本のGDPを引き上げているIT企業の有能な社長を巻き添えにして殺すかもしれないのだぞ。介護疲れで年金もろくろくもらえない六十代の老いた夫が認知症の妻と一緒に硫化水素で死のうとして、なんの仕事もしていないが有能であることになっている天下り官僚を巻き添えに殺してしまうかもしれないのだぞ。そんなことがあってはならない。日本政府としては、早急に自殺ボックスを設置すべきではないかとおれは思うのだがどうか。

 多少英文学を齧った方であれば、このエントリーのタイトルだけでおれの真意を察してくださることと思うが、おれの提案は、聖職者であったジョナサン・スウィフトにのそれに比べれば、ずっと“控えめな提案”として日本政府に嬉々として受け容れられるだろうと思うんだがどうだろう?



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2008年5月 3日 (土)

どこかで人気なの?

 なんだか、このところ「バトルプログラマーシラセ」という検索語でこのブログにやってくる人が急増しているんだが、どこかで再放送でもやってるのだろうか? それとも、誰か名のある人が公の媒体で言及したのだろうか? どうも、検索が増えている原因が見当たらない。いやまあ、おれはアレ、大好きですけど。



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2008年5月 2日 (金)

地球にやさしい船場吉兆

せこい!船場吉兆 食べ残しの天ぷら、アユ塩焼きを別の客に (MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080502/crm0805021423026-n1.htm

 牛肉の産地を偽装表示していた高級料亭「船場吉兆」(大阪市中央区)が、本店の料亭部門で客が残した天ぷらやアユの塩焼きなどの料理をいったん回収し、別の客に提供していたことが2日、分かった。料亭経営を取り仕切っていた当時の湯木正徳前社長(74)の指示で昨年11月の営業休止前まで常態化していたという。大阪市保健所も同日、「モラル上あってはならないこと」として食品衛生法に基づき、本店の立ち入り調査を行った。事実関係を確認したうえで行政指導する方針という。

 あ~あ、これで船場吉兆の息の根は完全に止まったな。三流食堂の刺身の妻じゃあるまいし、一流料亭の料理が食べ残しだったとはびっくりだ。偽装牛肉はべつに不潔じゃないが、これはイメージ的には不潔、飲食店としては致命傷である(実際には、これに類することがしばしば行なわれているとは、安い飲食店で働いたことのある人からはよく聞いたりするのだが……)。隠す嘘をつく不潔の三拍子揃ったイメージがすっかり全国に広まった飲食店がやってゆけるわけがない。まあ、おれには縁のない店ではあるが、一応、お別れを言っておこう。さようなら、船場吉兆。

 同じやるのなら、公明正大にプラスの価値を打ち出してやればよかったのにね。つまり、「食べ残し」というのを正式にメニューに入れるのである。「当店では地球環境に配慮し、資源の有効利用を図るため、一度お客様にお出しした料理でも、箸をつけていらっしゃらなければ、衛生面に配慮した再調理を一流の料理人が施し、“地球に優しい食べ残し”として、ご希望のお客様に正価の半額でお出ししております。お得でエコな“食べ残し”をぜひご利用ください」とかなんとかさ。“食べ残し”という語感が悪ければ、“レフトオーバー品”とかなんとかテキトーな横文字にしておけば、なにやら積極的な価値を打ち出そうとしている感じはするだろう。それが実際に利用されたかどうかは別として、そのコンセプトは、かえって社会に評価されたかもしれないよ。

 学生時代、ホテルの宴会場でアルバイトしてたころ、立食パーティーとなると、それはそれは楽しみだったものである。手つかずで残る料理が多いから(立食パーティーだから、箸をつけたものは大皿にはまず戻さない)、貧乏学生にはふだんまず食えないような料理の“取り残し”を、捨てる前に手当たり次第に腹いっぱい食えたからだ。パートのおばちゃんたちと一緒に、右手で食っているあいだに左手で次のを掴み、その左手を口に運ぶあいだにまた右手を伸ばすといった調子で、餓鬼のように食っていた。おれはとても地球にやさしい学生だったと、われながら思う。

 それにしても、船場吉兆で食事したことのある人は、このニュースを聞いてどう思ったろうね? デリケートな人なら“えずく”かもな。多くの人は、頭が真っ白になったことだろう。



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