2009年7月 7日 (火)

脳生は人の生か?

 「脳死は人の死か?」というのは、マスコミがしょっちゅう問うていることなのだが、だったら、二十一世紀においては、「脳生は人の生か?」ということも、そろそろ真剣に問わなくてはならない。なぜなら、バイオテクロノジーの進歩によって、脳という組織だけを単独で発生させ培養することも可能になるだろうし、コンピュータ技術・ソフトウェア技術の進歩によって、相当“強い人工知能”を開発することも可能になるだろうからである。

 たとえば、事故などで脳以外の機能がまったく“死んで”しまった人は、脳が生きているかぎり、法的にも生きていると認めなければおかしいだろう。

 日本人が文化的になかなか脳死を人の死だと認め難いメンタリティーを持っていることは、おれも実感としてよくわかる。しかしそれは、裏返せば、脳生を人の生だとも認めがたいということなのではあるまいか? たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 日本人が人型ロボットをあっさり受け入れられる背景には、案外、脳死を人の死として受け入れ難いメンタリティーが関係しているのではなかろうか? つまり、人のカタチをして人のようにふるまうものは、それが“生きた脳”を持っていようがいまいが、人の一種として受け入れられる心性があるのでないか? それとも、たとえそれが機械の“心”を持っていようが、そんなものは“人の生”としては受け入れられないので、どんなに人間に近い人工物ができようとも、人間を脅かすものとは到底捉えられないがために、安心して受け入れられるということなのだろうか? わからん。おれには、まだわからん。

 いずれにせよ、これからの時代は、「脳死は人の死か?」という問題と表裏一体のものとして「脳生は人の生か?」と、おれたちは問い続けてゆかねばならないのではないかと思うのである。



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お買い上げ御礼(2009年6月)

■2009年6月

【最も値段の高いもの】

 おれもブラウンのを使っている(なんかこう、刃物と文房具といえばドイツ製みたいな偏見があるのだ)けれども、こりゃ最高級ランクのやつだよなあ。きっと、お洒落な人が買ったのだろう。おれのはせいぜい実売七、八千円のやつだよ。

【最も値段の安いもの】

 てっきり宮本武蔵関係の本かと思ったら、オリンピック関係の本だった。以前、『時速250kmのシャトルが見える トップアスリート16人の身体論』って本を紹介したことがあったが、なんとなくこれもそれっぽい本みたいだな。

 アフィリエイトをやってて面白いのは、煙草代程度の小遣いが稼げるという実利だけじゃなくて、“おれのブログを読むような人がどんなものを買うのか”というのを知ることができる点だ。事実、人がおれの知らない面白げなものを買っているのを見て、おれ自身が買ってしまったことが何度もある。おれのサイトからアマゾンに跳んだ人がなにを買ったかをウォッチすることで、おれ自身が逆レコメンド(?)されて買ってしまうことが、しばしばあるのである。アマゾンは笑いが止まらんだろうが、おれはおれで便利なので、これでいいのだ。

【最も多く売れたもの】

 該当なし。売れたものはみーんなひとつずつ売れたのである。

【最もケッタイなもの(主観)】

 最近、こういう“萌え系”の科学本がいろいろ出ていて、まことに嘆かわしくも喜ばしいことである。おれは買ったことないんだが、萌え科学本を立ち読みしていて感じるのは、“萌えとは擬人化と見つけたり”ということである。べつに最近の若者でなくたって、おれたちくらいのおじさんでも、多かれ少なかれ、物理やら化学やらを擬人化して理解していることはたくさんある。「光は直進している“つもり”なんだが、空間のほうが曲がっているので……」とか、「カリウムのほうがナトリウムよりイオンに“なりたがる”ので……」とかいった具合だ。根っから抽象的思考が得意な理科系の人は擬人化なんかしたりしないのかもしれんが、少なくとも、おれみたいなベタベタの文科系の人間は、擬人化したほうがわかりやすいという気持ちは理解できる。科学系の萌え本ってのは、そういうメンタリティーを狙ったものなのだろうと思う。

 科学を萌え本にするとはふざけておるという見解もありましょうが、どういう様式であろうが、要するに、理解しちゃったほうが勝ちなのである。

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2009年7月 6日 (月)

こりゃ、いまの日本には絶対作れないものだよなあ

米連邦政府,IT支出情報の開示コーナー「IT Dashboard」と専用YouTubeチャンネルを開設 (ITpro)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20090701/332965/

 米連邦政府の最高情報責任者(CIO)であるVivek Kundra氏は米国時間2009年6月30日,政府の支出情報公開サイト「USASpending.org」内に,IT支出情報の開示コーナー「IT Dashboard」(ベータ版)を新設したと発表した。またビデオ共有サイト「YouTube」内に専用チャンネル「USAspending」も設けた。
 IT Dashboardでは,国防総省(DOD)や国土安全保障省(DHS),保健社会福祉省(HHS)といった組織におけるIT支出状況や投資プロジェクトの件数などをグラフ形式で示す。全体的な状況に加え,組織ごとの支出や進ちょくも確認できる。更新情報のRSSフィード配信も行う。
 グラフなどは,各組織から連邦政府の行政管理予算局(OMB)に提出されたデータから生成する。7000件以上あるIT投資プロジェクトの概要を掲載するほか,800件弱の主要プロジェクトについてはより詳細なデータを公開している。

 ううううむ。わしゃ、この IT Dashboard を見て、orz とくずおれたよ。すげー。

 こういうものを作るITの技術力がすごいと言っているのでは、もちろんない。この程度のものを作れる技術者なら、日本にもうようよおる。そこいらへんにいっぱいおる。作れる技術力なら、日本だってアメリカに勝るとも劣らん。だが、作らせることができるリーダーシップとコラボレーションの体制に関しては、彼我の差はまるで大人と子供、いや、大人と赤ん坊だ。作れる技術は十二分にあるのに、作らせるほうがボンクラなので、日本にはせいぜいこの程度のおもちゃしか作れない。な、情けねー。「そんなことはない」という政治家やお役人方、じゃあ、作ってみろよ。賭けてもいいが、絶対に作れないから。どんなに優秀なIT技術者を大量に雇っても、金を湯水のように注ぎ込んでも、絶対に作れないから。その理由は、あんたがたがいちばんよく知っているはずだ。

 このオバマ政権の IT Dashboard の開発に携わった技術者を全員日本にヘッドハントしてきて日本の“電子政府の総合窓口”とやらを作らせたとしても、現状と似たり寄ったりのろくでもないものしかできないと断言できる。つまるところ、問題の本質はじつに簡単なことなのだ。つまり、ITの力を引き出せるかどうかは、コンピュータ技術の問題でもなければ、ソフトウェア開発技術の問題でもないということである。

 それにしても、こういうもんをちゃちゃっと作らせることができる(“作ることができる”ではない)アメリカ合衆国という国は、虚心坦懐にすごいと思うね。

 よく、日本人は個人プレイよりもチームプレイが得意だとか、アメリカ人は一人ひとりが自分勝手だから集団行動が苦手だとか、根拠のない(事実に基かない)印象だけでほざく人がおるが、おれはその手の思い込みは笑止千万だと思う。アメリカ人は、互いに異質でバラバラのやつらが、まとまればまとまるほど賢く強くなってゆき、日本人は、個々人は優れている均質なやつらが、集まれば集まるほどアホになり弱くなってゆく。

 チームプレイが得意な国で年金が消えたりするかよ。党利党益、省利省益しか考えていない政治家と役人が馴れ合って国民不在の政治と行政を自分たちだけのために回し、そんでもって、それだけコケにされても、ろくろく選挙にも行かない国民が大勢いる日本人の、どこがチームプレイが得意なものか。あの、大多数はどう見ても能天気な阿呆としか思えないアメリカ人どもが、なぜ世界の頂点に立っているのかを、もう一度、虚心坦懐に見つめ直すべきだ。やつらは、いまのおれたちにはないものをたしかに持っている。それは“多様性というのは善である”という、たしかなマインドセットだ。そりゃあ連中だって、多様性の善を否定するようなことをしてきた。しかし、やつらは、それを自浄する能力を持っている。これは手強い。多様性の善は、生物界に於いて、三十八億年以上の実績を以て証明されてきた強力な戦略だからだ。これを国家存続のための哲学とした国は、絶対に侮れん。

 日本は、このままで行けば、数十年後には、中国の“ヤマト自治区”になっているか、アメリカの五十一番めの州になっているか(まあ、いまだってそうだという見解もある)のどっちかだとおれはマジで思うのだが、どっちかを取れと究極の選択を迫られたら、おれは日本をアメリカの五十一番めの州にしたい。むろん、独立国であることが、いちばんいいに決まっているのだが……。

 おれは思うのだが、日本人というのは、ステレオタイプな日本人像とはまったく異なり、組織やシステムの不備や怠慢を、個人個人の優れた能力と自己犠牲で切りまわしてきた、世界にも稀に見る“個人プレイ”が得意な民族なのではあるまいか? “和を以て尊しとなす”という言葉を、誰よりもはきちがえてきたのは、当の日本人なのではないかと、最近切に思うのだ。

 いまこそ日本人は、ほんとうのチームプレイ、多様性を善とするチームプレイというものを学びはじめなくてはならないのではなかろうか? その最良の教師は(反面教師も含めて)、やっぱりおれはアメリカ合衆国だと思うのだ。はっきり言って、やつらは、いまの日本人よりも、はるかにチームプレイが得意である。そうじゃないと言うあなた、たとえば、在日朝鮮人の二世や三世や、中国残留孤児の二世や三世が、能力さえあれば、近いうちにこの国で議員や大臣や首相になれると思うか? アメリカ合衆国という国の連中は、それに近いことを、すでに実際にやってのけているのだ。



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2009年7月 1日 (水)

今月の言葉

選対主義国家

 指導者たちの頭の中には選挙対策のことしかない国家のこと。



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2009年6月30日 (火)

“現役女子高生”の怪

 “現役女子高生”というのは、よく考えてみると、じつに不思議な言葉である。わざわざ“現役”であると説明しているわけだから、世の中には“現役でない女子高生”も現役女子高生と混同しかねないほど多く存在していることを前提としているわけだ。

 しかし、“現役でない女子高生”とはいったいどういう存在であるのかと可能性を検討してみると、高校に行っていないが女子高生のふりをしている“ニセ女子高生”であるか、かつては現役女子高生であったがいまはちがう“元女子高生”であるかのいずれかだろう。しかし、高校全入に近い状態のいまの日本では、ニセ女子高生などというものは現役女子高生に比べれば圧倒的な少数派であろうから、なにもわざわざマジョリティーのほうに“現役”などと冠をつけなくとも、女子高生といえば、十中八九現役なのである。

 一方、“元女子高生”の場合、そんなものはそこいらへんにいっぱいおるうえに、現役女子高生との混同を惹起するような、不正競争防止法に抵触しかねない外見を元女子高生がキープしていることはきわめて少ない。そもそも、“元”なんとかってのは、“元レースクィーン”とか“元バスガイド”とか、ある程度の希少価値がある経歴に言及する際に用いるのであって、そこいらのおばはんが「あたし、元女子高生なのよ」などとほざいてまわったら、それがいかに論理的に真である叙述であっても、鼻で笑われるか石を投げられるだけである。

 ではいったい、この“現役女子高生”という不可思議な言葉が、なぜかくも人口に膾炙しているのであろうか?

 容易に想像できるのは、やはりこの言葉は、性風俗産業用語が一般に広まったものなのではないかということである。そのむかし、どう見ても“元女子高生”にしか見えない女性が女子高生を演じるのが常態であった時代があり、消費者のほうもそれはちゃんとわかっていて幻想を投影していたのだが、いつのころからか、ほんものの女子高生が業界に参入してきて、そうした黎明期には、“現役”であることが差別化の重要な要素であったわけなのだろう。「女子高生て書いたあるけど、そんなもんウソに決まってるやん」という前提をみなが暗黙裡に持っていた時代に、“現役女子高生”というコピーには、さぞやインパクトがあったことだろう。

 おれくらいの年齢だと、そういう歴史的経緯が容易に推察できるのだが(ま、最後の“ビニ本”世代ですからね)、よく考えてみると、いまの若者たちには、“現役女子高生”という言葉が、おれたちが思う以上に奇異に響いている可能性はあるんじゃなかろうか。彼らにとっては、べつにほんものの女子高生がメディアで裸身を晒していたとて、「それがなにか?」といった感じであるにちがいない。“ジュニアアイドル”という名の小中学生が、小便臭い大胆な水着姿を晒しておっても、べつに珍しくもなんともないからな、いまは。

 “現役女子高生”という文字列に、ある種のノスタルジーと多少のインパクトを覚えているのは、おれたちよりちょっと年配の世代から上だけなのかもしれない。団塊の人たちなのかもな、若かりしころ、「げ、げんえきじょしこーせー!?」などと衝撃を受けていたのは。



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2009年6月29日 (月)

謙虚になれ、爺いども!

小中学生のケータイ所持禁止 石川県条例案に異論 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/06/26043914.html

子どもには携帯電話を持たせないように保護者への努力義務を課す――。石川県議会に提出された条例案に異論が出ている。取り上げても、抜け道がいくらでもある、という指摘や、下校後の塾通いや防犯対策を考えると必要だ、という意見だ。実際、明確なルールを決めた上で携帯電話の持ち込みを認めている学校もある。

(中略)

一方、デジタル・メディアが教育上与える好ましくない影響についての調査を行っている、NPO法人青少年メディア研究会の理事長・下田博次さんは、今回の石川県の条例案について「条例で(携帯電話所持禁止に)踏み込むという姿勢を示したことがよかった。実効性は別だが、地方自治体が(小中学生の携帯電話利用への)危機感を持っている証明だと思う」と指摘する。

「携帯電話を持っているからネットいじめ、出会い系サイトの問題が成立しているのが現状です。これらは当然、携帯電話を持っていなければ、成立しない問題。こうした事件が携帯電話の普及とあいまって増していることを考えれば、私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」

 いろいろと議論をする中で、大人が世の中に追いついてゆこうと試行錯誤や努力をするのはじつによいことだ。思考停止をせずに、もっとああでもないこうでもないと、おれたちは考えてゆかねばならない。

 しかし、このNPO法人青少年メディア研究会の理事長とやらの見解にはずっこけた。「私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」だって? なにを言っているのかわかっているのか? 要するに、これは大人が「おれたちのわからんものを若いやつに持たせてはいかん」と言っているわけである。アホか。典型的なロートルの発想である。いつの世も、上の世代が理解できない新しいものがほんとうに世の中を変えてきたのだ。あんたも若いころは、「大人はわかってくれない」と思っていたことはないのか? それを忘れたのか? 手塚治虫だってビートルズだって筒井康隆だって、最初から大人たちは褒め称えていたのか?

 この理事長さんは、野口悠紀雄の言をとくと聴くがよい──

野口 それは、GPTの種類によるのですね。「電力の場合にはイギリスに不利な技術変化だったけれど、ITは逆で、日本に不利な技術変化だ」というのが、この本の主張です。
 例えば、ITは1980年代以降のものですから、その頃すでに企業の中堅になっていた世代の人たちが、いま企業において決定権を持っているわけですね。その人たちは、新しい技術に適応力を持っておらず、ITが得意なのは若い人です。だから、もし会社の中でITを活用するようなことになったら、下克上が起こる。
 そういう人たちがITの導入に積極的な考えを持つとは考えられません。これは、日本型企業のひとつの特徴である年功序列制が、新しい技術の導入に抑制的に働くことを意味します。

 そう、つまり、この理事長のものの考えかたは、“自分たちにわからないものを若いやつが自在に駆使するのは危険だし、面白くない”といった、結果的に組織や企業や国家の総体としての競争力を下げる方向に働く考えかたなのである。つまり、凡百のロートル経営者と同じ“すでに自分は終わっているくせに既得権にだけはしがみつこうとする”卑しい発想にすぎない。これこそ、日本がITをハコモノとしてしか捉えず、国を、社会を豊かにするためにITの真の力を引き出せない大きな理由のひとつだ。小学生や中学生には、ITの理論や仕組みはまだよくわかっていないかもしれない(が、興味さえ持てば、MITの講義だって無料で視聴できる仕組みはすでに開放されている。いま小学生の子らだって、やる気と興味さえあれば、数年後には、それらを直接利用し理解できるようになれる)。しかし彼らは、その“活かしかた”においては、下手な企業をはるかに凌ぐ。野村総研“産消逆転”などと言われて、国や企業は恥ずかしくないのか? ガートナー「大きな変革が足元で起きていることを認識してほしい」などと言われて、国や企業は危機感を覚えないのか?

 もたもたしている大企業のロートルをよそに、優れた中小企業の経営者たちは、あたかも小・中・高校生たちのようにITを利活用しはじめている。投資額では大企業に遠く及ばなくとも、その利活用の知恵は大企業をはるかに凌ぐケースも少なくない。「ややこしいことは専門家に任せておけばよいが、こんなに使えるものを本業の経営に使わんでどうする? おれは技術者になるつもりはないが、経営者としてこの強力な武器を活かすために学ばねばならんことがあるなら、いくらでも学んでやる!」という、経営者としてじつに正しい気概が彼らにはある。それはあたかも、難病に立ち向かう決意をした個人が、「おれは医者じゃないし、なるつもりもないが、この病気を克服するためなら、おれの病気や治療法を当事者として患者なりに理解する努力をせねばならん」と、医学的な知識を身につけようとしているかのようである。

 おれはなにも爺さんたちに十六進数で寝言を言えとか、TCP/IP のヘッダの構成くらい暗記しておけとか、Perl や PHP や Python や Ruby でばりばりコードを書けとか言っているわけではない。新しく出てきたものが“使える”ものであれば、それを自分の本業(たとえば、経営)に“活かす”ためのリテラシーくらいは、いくつになっても謙虚に身に着けようとせよ、とくに自分より年下の者に学べと言いたいだけである。

 その自分たちの怠慢を棚に上げて、「おれたちにわからんものを若いやつが使いこなすのはけしからん」などというくだらない考えを、さも教育的に重要なことであるかのように吹聴するロートルどもの気が知れん。おれはこのような年寄りにだけは、絶対になりたくない。

 なんのことはない、ケータイがどうしたこうしたという問題は、子供の問題ではないのだ。大人の側の怠慢の問題である。

 将来もし、魔法がおのれの本業や社会全体に大きな影響を及ぼす重要な技術として台頭してきたならば、おれは魔法を子供のころから使いこなしている若いやつ(“マジカル・ネイティブ”?)に教えを乞うだろう。『はじめての魔法』とか『図解でわかる魔法』とかいった本を買ってきて読むだろう。〈日経魔法ストラテジー〉を定期購読するだろう。「魔法 is beautiful」「404 魔法 NOT FOUND」といったブログのRSSを受けるだろう。自分が魔法に習熟できなくとも、その利活用のしかたについては、年の甲に頼って、あんまりない知恵を精一杯出そうとするだろう。

 まちがっても、「おれのわからん魔法を若いやつが使いこなすのはけしからん」などとほざく爺いにだけはなりたくない。



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2009年6月27日 (土)

♪寂~しさに負けた~、いいえっ、タヌキに負けた~

寂しさに負けた…タヌキの置物何度も盗む 容疑者を逮捕 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0625/NGY200906250001.html

 陶器のタヌキの置物を盗んだとして、愛知県警豊橋署は25日、同県豊橋市多米町、無職木村修武容疑者(52)を窃盗の疑いで逮捕した、と発表した。木村容疑者は独り暮らしで、「寂しさから盗んだ。ここ1年で、10体のタヌキの置物を盗んだ」と話しているという。
 同署によると、木村容疑者は24日午後11時10分ごろ、同市内の会社員男性(41)方で、庭にあった全長約60センチの陶器のタヌキの置物(1万円相当)を盗んだ疑いがある。木村容疑者はこの置物を盗んだ後、さらにタヌキの置物もう1体を盗もうと戻ってきたところを、男性に見つかり、110番通報で駆けつけた同署員が逮捕した。
 木村容疑者が、なぜタヌキの置物を狙っていたのかは不明で、同署員は「(木村容疑者は)タヌキマニアなのかもしれないが、よくわからない」と話している。

 まあ、先日の「ヘビの散歩」のおっさんだってそうだけど、はっきり言って、どこか“病んでる”よなあ、この人たち。だが、病んでいるがゆえに、そりゃ犯罪はいかんけれども、どうもその、そこはかとない惻隠の情というか、けっして人ごとではないなにかを感じて、妙にいとおしくなってしまうことも事実である。いやそりゃ、犯罪者ですよ。でも、悪い人じゃないような気がしちゃうんだよねー。

 これが仏像かなにかなら、オーガナイズされた組織犯罪の匂いみたいなものがして、とたんに関心が失せるのだが、タヌキの置物ってとこがしょぼくていいじゃないすか。“業”のようなものを感じる。おれもいつの日にか、カエルの置物の連続窃盗犯として逮捕されるところまで壊れてしまうようなことがないとは言えない。

 もしそういうふうにおれが壊れてしまったら、おれの友人・知人の方々にはお願いがある。「まさか、あんな真面目そうな人がこんなことを……」みたいな薄っぺらなことは、けっして言わないでほしい。え? べつに頼まれんでも言いませんかそうですか。でもまあともかく、「ああ、とうとうやりおったですか。そのうち、なんかやるんやないかと思うてました」くらいのことを言って、マスコミを喜ばせてあげてほしい。え? べつに頼まれんでも、そういうふうに言いますって? いやあ、嬉しいね、そりゃ。さすがおれの友人・知人だけのことはある。いつ壊れても安心だ。じゃあ、頼みましたよ。

 ここまで壊れたかないけどねえ……。



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2009年6月25日 (木)

採用条件:地頭のよいバカ

文科相「平日の就活禁止を」新ルールづくりへ持論披露 (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0624/TKY200906240374.html

 「就活」に新しいルールを――。塩谷文部科学相は24日の参院行政監視委員会で、学生の就職活動が長期化、早期化して学業に影響が出ていると指摘されていることに関連し、「少なくとも平日は、企業も就活(就職活動)の会合をしてはいけないとか、それぐらいのルールを最低限つくってもらいたいと思っています」と述べた。
 山下芳生議員(共産)が「学生は大学3年の早い時期から負担を強いられている」として就職活動のルールづくりを求めたのに答えた。
 塩谷文科相は「かつては就職協定があり、今は(日本経団連の)倫理憲章のもとにやっているが、現実には守られていない」と指摘。「要は授業のある日は(企業が就活中の学生を集める会合を)やっちゃいけないとか、それぐらいのルール」が必要だと語り、山下議員も「なかなか具体的な検討内容を披瀝(ひれき)していただいた」と評価した。
 就活に関する新しいルールづくりは、何度も議論にはなるものの、企業側が難色を示すなど状況は変わらないまま。ただ、今回の大臣の持論披露には、当の文科省内でも「ちょっと現実的ではない」と受け止められている。(青池学)

 塩谷文科相の持論はたしかにいまの状況に照らすと現実的ではないとは思うが、“学生は勉強せえ”というあたりまえのことをあたりまえに言っている点で評価できる。あたりまえのことをあたりまえに言うことは、存外に大事なことだ。

 少し前にあちこちで話題になった「三角錐の体積が計算できない技術系新入社員---深刻な若手の学力低下」という記事をいま一度併せて読むと、いったい企業側はなにを求めているのかよくわからなくなる。おれがわからなくなるのだから、就職活動中の学生諸君はなおさらわからないだろう。企業側は、自分たちが大学でろくろく勉強させずに採った学生の基礎学力がないと言って嘆く。矛盾しとらんか?

 企業側のぶっちゃけた本音を想像するに、「十八、九歳の時点の瞬間風速でそこそこの大学に入れたという“そこそこの地頭のよさ”だけを一応証明してくれれば、大学の役目などそこで終わっている。大学でなにを学ぶかなど知ったことではない。というか、あんまり余計なことを教えないで、できるだけ白紙のままでこっちに渡してくれ」ということなのではなかろうか? つまり、“できるだけ地頭のよいバカが欲しい”というのが企業側の(もしかすると、企業側自身も気づいていない深層の)本音なのかもしれん。

 このような企業側の明示的メッセージと暗示的メタメッセージとの乖離は、学生たちをいわゆる“ダブルバインド”の状況に置く。学生たちは、“私はじつは「やればデキる子」なのですが(その証拠にそこそこの大学には入れたのです)、大学では毒にも薬にもならないことをちゃんと勉強するふりをして着々と単位を取っているくらいに世渡りは上手です。もちろん、卒業後はどんな色にでも簡単に染まってみせる、要するにあなたがたの脅威にはけっしてならないアホです”というケッタイなアピールをしながら就職戦線を戦わなくてはならない。

 大学生にろくろく勉強をさせないように行動しながら、採用した新人の基礎学力がないといって嘆くのは、ちょっと学生に酷じゃないの? 企業側はここらで本音で勝負したほうがいいと思う。「まぐれだろうがなんだろうが、そこそこの大学に入れたという一事を以て、少なくとも地頭は悪くないと認定する。だから、大学生時代はできるだけ余計なことは学ばないでくれ。なあに、こっちが内定さえ出しゃ、大学の教師なんぞ簡単に折れて卒業させてくれるよ。キミは義務教育修了程度の四則演算と日本語の読み書きができりゃいい。その代わり、ウチの会社に入ってから、ちゃんと“教育”してあげるからウチに来てくれ」──要するに、こう言いたいのだろう? ぶっちゃけた話。

 「へえ、企業ってそうなんだ? じゃあ、大学なんて要するに“入れれば勝ち”なんだね? よーし、大学入って、思いきり遊んで、立派な“地頭のよいバカ”になっていい会社に入るぞお」などと目から鱗が落ちた学生が仮にいたとしたら、そういう人は「優秀なエンジニアは「入社時のスキルを問わない会社」には就職してはいけない」という、これまた一時話題になったブログエントリーも読んでおいたほうがよい。べつにこれって、もはや“SIer”にかぎった話じゃないからね。定式化すると、“○○を以て競争力とし、○○で食っているはずの企業が「入社時の○○を問わない」と新卒を募集しているのはあきらかにおかしい。なにか裏がある”ということだ。

 なんの道によらず、大学でちゃんと勉強してきた人は、「入社時の○○を問わない」企業じゃなくて、「入社時の○○を大いに問う」企業に入ったほうが、なにかと面白いだろうと思うよ。せっかく○○をしっかり勉強してきたのに、入社してみたらいきなりド素人と横並びで、「大学教育? 専攻? なにそれ? 食えるの?」みたいな扱いをされたら、「だ、大学って……なんだったの?」と、ヤワなやつは五月病になっちまうよなあ。でも、基本的に“地頭のよいバカ”を欲しがっている企業ってのは、どこも似たり寄ったりだろうと思いますよ。

 純プラグマティックに考えると、大学時代の勉強は“趣味”と割り切って思いきりやって(趣味だからこそ、損得考えずに打ち込めるのだ)、就職活動では適当に“地頭のよいバカ”を演じて適当なところに潜り込む──ってのが、今風の処世術かもしれん。そのうち、デジタルネイティブのキミらがほんとうに面白いと思えるなにかにめぐり会うかもよ。会わないかもしれないけど。



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2009年6月23日 (火)

女々しいぞ、松浪健四郎!

宮崎・東国原知事「総裁候補」発言 自民党内からは厳しい声も (FNNニュース)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00157738.html

宮崎・東国原知事「総裁候補」発言 麻生首相「これは去就の問題」 (FNNニュース)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00157749.html

自民党の古賀選対委員長から次期衆院選出馬の要請を受けた宮崎県の東国原知事が、「自分を総裁候補にする覚悟があるなら」と応じたことについて、麻生首相は23日午後6時すぎ、官邸で記者団に対し、「(事前に首相の了解を得て、古賀選対委員長は東国原知事と会談した?)東国原知事さんに会いにいくという話は知っていました。(麻生首相への挑戦ともとれるが?)知事を辞めて、それなりにいろんなことをやる。これは去就の問題ですから、そんなおちょくったような気持ちで言っているとは思いません」と述べた。
東国原知事の発言について、大阪府の橋下知事は「本当に言ったんですか? 古賀委員長に。いや~、度胸ありますね。とてもじゃないですけど、考えられない、すごい」と述べた。
自民党内からは、さまざまな声が聞かれた。
自民党の丸川珠代議員は「さすがですね。東さんの切り返しが素晴らしいと思います。それは東さんならではですね。組織をまとめていくっていうのと大統領って、また違う資質だと思うので、やってみないとわかりませんね」と述べた。
自民党の松浪健四郎議員は「『東国原君、顔洗ってくれ』と言いたい。それに、東国原知事に依存しなければいけないほどに、自民党が落ちてんのかと思うと、情けないね」と述べた。

 顔洗うのはあんたのほうだよ、松浪健四郎。自分が所属している党の選挙対策責任者が頭を下げて頼みにいった相手に、上から目線でなにをほざくか! 無礼にもほどがある。民間企業なら、こういう状況で自分の組織が頼みにいった相手を、公の場で悪く言うことなど考えられない。「なんであんなやつに頼みにいったのだ」と、あくまで内部で批判し合うのが常識である。組織というものは、対外的には“ひとつ”のものとしてふるまわなくてはならないのだ。いかに、おのれが自分の所属組織の行動に批判的であったとしてもである。そういうあたりまえのことを理解する能力を、組織の“自浄能力”という。

 松浪健四郎、あんたが、「顔洗ってこい」というべき正しい相手は、古賀選対委員長である。そんな世間ではあたりまえのこともわからずに、ただただ大きな組織にぬくぬくと属しているだけの優越感からか、自分たちが頭を下げにいった県知事に対して無礼な言を吐くとは、女々しいにもほどがあるぞ。おれはフェミニストだから“女々しい”という言葉はあまり使いたくないのだが、おれの怒りをあんたに伝えるにはこの言葉が最も適当であろうと判断する。“女々しい”という言葉が政治的に不適切だというのなら、“男の腐ったような”とでも言おうか。そんなことをうじうじ言っているんなら、古賀選対委員長にコップの水でもかけにゆけばよかろう。あるいは、そんなに自民党がいやなら、とっとと離党して、他党に入るなり新党を立ち上げるなりしろ。

 丸川珠代議員にしても橋下徹知事にしても、東国原知事の強烈な毒を含んだ発言の意図がわかっているから、天晴れ、よく言ったと、ウケながら褒めているのである。麻生首相もなにを頓珍漢なことを言うておるか。東国原知事はべつに自民党を「おちょくって」いるわけではない。「なめて」すらいない。「おまえはもう死んでいる」と言っているだけのことだ。

 東国原知事は、「都合のよいときにだけ人気者を担ぎ出せば国民なんぞいくらでも騙せる程度にまだ考えているとは、おまえらの頭の中は二十世紀のままで止まってるんじゃねーの? おまえらの人寄せパンダに使われて捨てられてたまるか。どれ、おまえらの腹のくくり具合を試してやろうじゃないか。けけけ、絶句してやがる。そりゃそうだろ。どうせできねえだろうし、できねえからこその自民党なんだ。おい、古賀、顔洗って出直してこい」と、自民党に引導を渡しただけのことである。そんなこともわからんとは、松浪健四郎、そのでかい頭に詰まっているのは筋肉か?

 大阪府第19区の有権者は、いや、全国民は、次の総選挙ではよく考えてもらいたい。もっとも、大阪府第19区の有権者はもうよくわかっていて、この人は小選挙区では“すでに死んで”おり、首の皮一枚で比例区にぶら下がっている程度なんだから、あとは比例で落としてやればよいだけのことだ。こんなのをいつまでも国会議員にしていたのでは、全国民にとってもよくないし、自民党にとってもよくない。

 案外、この事件は、あとから振り返ってみると、自民党の“終わりのはじまり”の決定的引鉄を引いた事件として語り継がれることになるかもしれんな。中央集権体制が弱体化し、地方分権へと移行してゆく時代の象徴として、「2009年 宮崎の屈辱」などと、教科書に載ることになるかもしれん。



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蛇足

カミツキガメ飼育容疑で逮捕 ヘビの散歩から発覚 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0622/TKY200906220312.html

 特定外来生物のカミツキガメなどを無許可で飼ったとして、群馬県警は22日、沼田市の男(50)を外来生物法違反容疑などで逮捕した。
 「公園で大きなヘビを放して散歩させている」との相談があり飼い主宅を捜索したところ、甲羅が最大で31センチのカミツキガメ5匹とワニガメ1匹、ニシキヘビらしい死骸(しがい)が見つかった。
 男は「500円玉程度の大きさのカメを5年かけて育てた。ヘビやカメが好きだった」と話したという。県警幹部は「ヘビでアシがつくなんて」とあきれていた。

 素朴な疑問として、「ヘビの散歩」ってのは日本語として正しいのだろうか? じゃあどう言うのだと問われると、たしかに困る。さ、散行

 このおっさんがどのくらいの「大きなヘビ」を「散歩」させていたのかはよくわからないが、五メートルくらいのヘビの首にリードをつけ、コンビニのレジ袋とスコップを持って「散歩」させている五十男の姿をビジュアルに思い浮かべると、なかなかシュールに愉快だ。五百円玉くらいのカミツキガメを三十一センチにまで育てたこのおっさん、けっして悪い人ではなさそうな気もするんだが、違法は違法だからねえ。

 自分の愛するものを、必ずしもそこいらへんのふつうの人が愛してくれるとはかぎらないという教訓を、このおっさんは五十年も生きてきて得ることがなかったのだろうか? SFファンを五年もやれば、そういう常識は身につくんだがな。べつにSFファンにかぎらず、特定分野のオタクは、とても他人事とは思えないだろうとは思うけどねえ。同好の士諸君は、公園で青背を散歩させたりしないように。それが元で、自宅で飼っているサンリオSF文庫が見つかってしまったりするぞ。

 「お母ちゃ~ん、ヘンなおじさんが大きなヘビを散歩させてる。怖い」
 「怖くないよ、お嬢ちゃん。ほら……、伏せっ、伏せっ」
 「ずっと伏せてると思うけど……」
 「そんなことはない、こいつは調子のいいときはもっと伏せるんだ」
 「ほかになにかできるの?」
 「できるとも! ほら、お手っ、お手っ!」
 「…………」

 それにしても、「ヘビでアシがつくなんて」って、この県警幹部、役人にしてはそこそこやりますな。“座布団一枚”“中笑”“アンテナ二本”くらいはあげよう。



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