2012年1月 9日 (月)

Olasonic 薄型テレビ用高音質スピーカー ブラック TW-D7OPT(B)(東和電子)

 テレビを地デジにしたはいいが、昨今の薄型テレビは、形状を重視するあまり音を犠牲にすることおびただしく、外付けスピーカー付けなきゃなあと思っているうちに、ずるずると一年くらいテレビだけで観ていた。映画を観るときなどは、さすがにゼンハイザーのイアホンで没入して観ていたが、日常的には外付けスピーカーがなくても、とくに不便はしないものだから、なかなかスピーカーを買おうと腰が上がらなかった。PC用のアクティブスピーカーと、音響メーカーの本格的なスピーカーとの中間に位置するような、手ごろな値段のテレビ用スピーカーがなかなか見当たらなかったということもある。

 そこで、去年の十二月。毎年クリスマスには、妹宅に一家で使えるようなものをプレゼントしているのだが、はて、今年はなににしたものかと考えていて、思い当たった。おお、そうじゃ。妹宅もウチに半年くらい遅れてアナログ停波ぎりぎりくらいに地デジにしたのだった。ということは、妹宅は、今年初めて地デジで年末年始を迎えるわけだ。紅白歌合戦やジャニーズのカウントダウン(姪たちはジャニヲタである)、年末年始の映画やなんかをいい音で聴かせてやろう。テレビ用のスピーカーを贈ることにするか。ついでに、おれも買おう。

 というわけで探してみると、昨年の六月にこいつが出ていて、約半年間の実績を調べると、なかなか評判がよかった。価格帯もちょうどおれが探していたものだ。よっしゃ、これにしよう。もしハズレでも、薄型テレビの内蔵スピーカーよりはましであろう――と、妹宅にプレゼント。おれ自身も買った。

Olasonic01

 年末年始、がっつり使ってみた結果、たいへん気に入った。このテレビ専用外付けスピーカーのいいところは、ふつうの家庭であればまず使っていないであろう、テレビ本体の光デジタル音声出力端子から信号を取るところだ。当然、光ケーブルが添付されている。通常のオーディオ端子からも取れるが、そっちは全然音がよくない。でも、オーディオ端子から取れば、テレビ側のリモコンで音量がコントロールできるが、光デジタル音声出力からだと、スピーカー側のリモコンで音量をコントロールしなければならない。一長一短なんだが、音量コントロールが別になったとしても、やっぱり光のほうが断然音がいいんで、少々の面倒は許せる気になる。

 PCであろうがテレビであろうが、外付けスピーカーを付けたときの面倒は、PCやテレビの電源と連動してくれないことなんだが、こいつはテレビ専用というだけあって、テレビの電源オン/オフにスピーカー側の電源も連動してくれるのが嬉しい。

 肝心の音だが、いままで内蔵スピーカーで聴いていたのがアホらしくなる。そりゃまあ、オーディオ専用機の音質を期待してはいけないけれども、テレビ用という利用シーンをきちんと考えた価格相応の音がちゃんと出る。それを実感したのは、意外にも『紅白歌合戦』ではなく、そのあとの『ゆく年くる年』だった。ぴーんと張り詰めた冷気の中に鳴り響く除夜の鐘、初詣の参拝者たちの息遣いやざわめき、踏みしめられた土の軋む音などなど、その場の“空気感”がちゃんと伝わってくる。おれは昨年の『ゆく年くる年』も、地デジ化したばかりのこのテレビで観たが、臨場感が全然ちがう。つまり、せっかく信号としてはちゃんと送られてきているのに、内蔵スピーカーでは再現し得なかった音が、この外付けスピーカーではちゃんと聞こえてくるのである。

 部屋をがっつり5.1chサウンドのオーディオ要塞のようにしている人にとっては、これはおもちゃのようなものだ。だが、地デジ化を機に薄型テレビにしたが、薄型テレビの内蔵スピーカーなどという屁のようなものでテレビを観ている人には、これはお薦めである。どんどん安くなってくるテレビ本体の価格を考えると、音に一万五千円出すのはどうかと思うが、テレビの場合は音と映像はセットであって、現在のテレビ受像機は、怖ろしいほどに映像偏重なのである。せっかくものすごい質の画が映っているのに、音があまりにもしょぼいというのは、結局、安物買いの銭失いなのではないか。ほんのちょっと音のほうの質を上げてやると、画質までちがって見えてくるものなのだ。

 テレビ用ということで考えてあるのだろうけれども、こいつの音のチューニングは、人の話し声にとてもフィットしている。これで聴くようになってから、とにかくテレビのトークがものすごく聴きやすくなった。真夜中など、音量をきわめて低く抑えていても、トークがしっかり聴き取れる。

 おれがオーディオ機器を評価するときには、いつも「オーディオ機器なんてものは、とにかく金さえ出す気であれば、いくらでも高性能のものが手に入るのだから、価格相応の性能であったところで、それはあたりまえなのである。価格を裏切る高性能に当たったときに、お得感もひとしおだ」って言うんだけど、こいつは価格を裏切るほどじゃないが、価格相応の性能だと思うよ。

Olasonic02_2

 こんな感じ↑で愛用してる(^_^;)。


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2012年1月 2日 (月)

今月の言葉

腑分けのスキャット

 ずるーずるーずるるー
 ずるーずるーずるるー


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2011年12月 3日 (土)

今月の言葉

れいおん!

 「GO! GO! MANIAC」
 「NO, Thank You!」


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2011年11月 1日 (火)

今月の言葉

アマゾンリーダーここにあり

 虚心坦懐に、Kindleのヘビーユーザである一読者としては、とっとと黒船アマゾンが上陸し、日本の出版業界を大再編してくれればいいと思っている。Kindle Fire、早く欲しいよぉ~。

 だが、日本の出版人たちが、いつまでもアマゾンのいいようにされているばかりだとは思えない。むしろ、アマゾンのインフラを逆手に取って、もっともっと世界に紹介されるべき日本の優れたコンテンツをがんがん世界に売り込んでゆくべく、いつの日か反撃に転じると思っている。そう、ガイジンどもが、日本語を勉強してでも日本語で読みたがるコンテンツが、日本にはたくさんあるはずだ。水木一郎にできたことが、日本の出版人にできないはずがない。

 たまたま英語が母国語であるだけで多少得をしているガイジンども、いまは負けてるけどな、いつの日か、おまえらに日本語を教えてやるゼーーーット!


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2011年10月30日 (日)

イタコ読書を体験しよう

 すべての本を電子書籍で読むというところまでは、まだ環境は整っていないし、紙の本を読まなくなるのは寂しいのだけれども、amazon と Kindle のおかげで、少なくとも洋書・洋雑誌・洋新聞に関しては、ほとんど電子媒体で読めるようにはなった。

 Kindle で買った本(まあ、最近だと、スティーブ・ジョブズの伝記とかだ)を、おれは Kindle 端末が使えるほどに空間的余裕がある場所では、Kindle 端末で読む。電子インクのディスプレイは画面そのものが光らないので、長時間の読書でも老眼に負担をかけない。だが、満員電車などで、Kindle でさえ持ちにくい、あるいは、鞄の中から取り出しにくい条件下であれば、おれは同じ本を Android 端末(GALAXY S)で読む。Kindle for Android がインストールしてあるから、Kindle 端末でどこまで読んだかはちゃんとシンクロされていて、なんの面倒もなく、スマートフォンで続きが読める。

 帰宅して、パソコンを立ち上げ、そうだそうだ本の続きを読もう――というときには、パソコンにインストールしてある Kindle for PC を立ち上げると、最後に使った端末が Kindle であろうが、Android 端末であろうが、すんなりと続きのページが出てくる。要するに、一度 Kindle で買った本は、プラットフォームがなんであろうが、同じものをいつでも、どこからでも呼び出せるわけだ。これはまあ、たまにしかやらないが、Kindle for PC の画面をHDMI経由でテレビに出力して、寝る前にベッドの枕元にあるテレビで本を読むことすらある。ワイヤレスマウスの電波が届く距離にパソコンがあれば問題ない。

 こういう本の読みかたに徐々に慣れてくると、ああ、これはなにかに似ているなあと誰もが思うはずである。そう、イタコである。本の中身は霊界にいて、老婆のイタコだろうが、中年女性のイタコだろうが、若い女性のイタコだろうが、少女のイタコだろうが、その時々に都合のよいイタコが身近にいてくれれば、いつでも本を呼び出せるわけだ。

 おそらく、おれの生きているあいだに、こうした“イタコ読書”は、完全に一般的なものになるだろう。ふらりと入った喫茶店のテーブルがディスプレイになっていて、指紋とかICカードとかでちょちょいと認証すれば、今朝、電車の中でスマートフォンで読んでいた本の続きが即座に表示されるようになるのだろう。風呂の中で、備え付けの防水端末にちょちょいと音声で命じれば、昼間喫茶店で読んだ本の続きを、音声で読み上げてくれるようになるのだろう。

 つまり、クラウドという霊界にいる“あなたが読んでいる本”は、あなたのまわりにあるさまざまな“イタコ”端末に、自在に呼び出せるようになるだろう。レシピ本ばかりではなく、小説やマンガに出てきたレシピですら、簡単に冷蔵庫や電子レンジのディスプレイに呼び出せるようになるだろう。

 「電子書籍がどうとか言ってるけど、いまひとつメリットを感じないなあ。紙のほうが読みやすいよ」とおっしゃる方は、もしかしたら、たったひとつのプラットフォームで電子書籍を読んでらっしゃるのではなかろうか。だとしたら、紙とたいして変わらない読書体験しか得られないと思う。おれの言う“イタコ読書”が体験できるようなハードとソフトとサービスとの組み合わせを選んで、試してみていただきたい。電子書籍による読書体験の本質は、端末の機能やソフトの使い勝手などにあるのではない。“イタコ読書”という、人類がかつて味わったことのない読書体験にこそあるのだと、実感なさることと思う。

 そして、その“イタコ読書”こそが二十一世紀のあたりまえの読書体験になるであろうと見抜いており、その環境をこそ構築しようとしているのが、amazon にほかならないのだ。“テキストを読む喜び”と、“書物という工芸品を所有する喜び”とは、もはや分けて考えなくてはならない。


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2011年10月 3日 (月)

今月の言葉

金魚がさ どじょうのふりすることねんだよなあ

 だいたい、金魚に劣るものであるかのように、どじょうどじょうと引き合いに出すのは、どじょうにたいへん失礼ではある。


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2011年9月 1日 (木)

今月の言葉

うわっ…日本の税収、低すぎ…?

 いやまあ、低いことは低いですが、こんなタイミングで増税しちゃダメだからね、野田さん。


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2011年8月30日 (火)

奪った命はどこへゆく?

 「命を奪う」という表現がある。べつになにがどうまちがっているわけでもなく、じつに頻繁に使われているし、おれも使う。だが、ちょびっと頭の隅でいつも気になっていることがある。

 たとえば、「財布を奪う」などの場合、財布は奪った者の手に移るわけである。だが、「命を奪う」場合、奪われる者は財布と同じように命を失うのだが、奪ったほうの手に命が移るわけではない。命はただ消えてなくなるだけである。これを果たして、「奪う」と能動的に表現してしまっていいものなのだろうか――と、いつも悩むのだ。もしかしたら、命などは、「奪われる」ことだけが可能であって、「奪う」ことはできないのではなかろうか?

 幸福なんかもそうだ。「あの男が私たちの幸福を奪ったのよ」と言う場合、私たちが幸福を失ったことは事実かもしれないが、じゃあ、私たちの占有を離脱した当該の幸福を「あの男」が横領することによって、「あの男」がそのぶんの幸福を享受しているのかというと、たぶんそんなことはない。

 もしかしてもしかすると、むかしは「命を奪う」「幸福を奪う」といった場合には、このような能動表現はなかったのではなかろうか? 「命を奪われる」「幸福を奪われる」などと受動的な表現のみが使われているうちに、能動表現のほうがあとから生まれたなんてことはあるまいか?

 むろん、いつものように、これはズボラなおれの想像にすぎない。気になる方は、ご自分で調べてみていただきたい。どこかの国語学者の方などが、とうのむかしに研究なさっていることなのかもしれない。

 同じ「奪う」でも、奪った者の手元に残らないようなものを奪うほうが、より罪深いと言えよう。財布は返すことができるが、命や幸福は、奪った者にも返すことができないからだ。


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2011年8月27日 (土)

放射線被曝健康法(※個人の感想です。効果には個人差があります)

「低線量の放射線被曝は、むしろ健康によい」という説がある。おれは専門家じゃないから、これを肯定したり否定したりする研究をする能力はないが、素人でも素朴に不思議に思うのは、「むしろ健康によい」のであれば、これを金にしようとする人が出現しないはずがないということである。「低線量なら、浴びてもさしつかえない」というんじゃなくて、積極的に健康を増進する効果があると言っているわけだろう? だったら、なぜ商売にしないのだろう?

 たしかに、ラジウム泉やらラドン泉やらといった、ある種の温泉などは、低線量の被曝による健康増進効果を期待して商売にしているわけだ。でも、温泉なんて、わざわざこちらから湯治に出かけてゆかねばならない。大きく儲けるには、誰もが手軽にいつでもどこでも低線量被曝の恩恵に浴すことができるような、流通可能な商品を開発したほうがいいのではないか。おお、ビッグビジネスの予感!

 そこで提案である。福島あたりの学校の校庭の隅っこに積んである、汚染された土やら砂やらがあるじゃないか。あれをですな、「低線量の放射線被曝は、むしろ健康によい」説を唱えている学者先生たちに監修してもらって、健康によい程度の分量を割り出し、食品に加工して販売するのである。ただそれだけでは売れないから、そこはそれ、こうした学者先生方の力をお借りして、特定保健用食品の認可を取る。「むしろ健康によい」程度の放射性物質を含んだ食品は、「条件付き特定保健用食品」としてなら認可される可能性は充分あるのではなかろうか?

 むろん、これを実現するには、産業廃棄物関連の法律をはじめ、いくつかの法律を改正しなくちゃならないだろうけれども、放射能汚染された瓦礫の山が健康食品の原料として宝の山に化けるのであれば、骨を折ってくださる議員さんはたくさんいるはずだ。

 特保が取れたら、有名人にCMに出てもらうのもいいだろう。「いやあ、うまい! カイワレはこれくらい汚染されているのが、むしろ健康にいいんですよ!」と、お遍路さん姿の菅直人ににっこりと言ってもらえれば売り上げ倍増である。あるいは、スポーティーな自転車を駆って躍動感たっぷりに現れた元科学技術庁長官/元原子力委員会委員長谷垣禎一が、ペットボトルを咥えて天を仰ぎ、喉仏をダイナミックに上下させながらごくごくと特保のスポーツドリンク「プルト君」を飲み干すというCMも、運動不足の中年層にアピールしそうだ。

 なにも食品や飲料ばかりが銭儲けの種ではない。旅行会社は、“放射線浴”を楽しめるツアーをなぜ組まない? もちろん、件の学者先生方にお願いして、「むしろ健康によい程度に汚染されたエリア」をピックアップしていただき、ツアーにもご同行いただこう。「◯◯先生監修! むしろ健康によい程度に被曝できるマイルドホットスポットめぐり」なんてのはどうだろう?

 いやいやいやいや、誤解してもらっては困る。おれはなにも、「むしろ健康にいい」と世のため人のためを思って無知蒙昧なおれたちを啓発してくださる先生方を茶化しているのではないのだ。ちょっとでも健康によさそうなものがあれば片っ端から商売にするビジネスマンたちが、なぜもっと商売気を出さないのか、いささか義憤すら覚えているのである。

 え? 実現したら、利用してくれるかって? いや、おれはべつにそのあの、そういうむしろ健康によいものを進んで飲み食いするほどには健康に気を遣ってないから、いいよいいよ、いいってば。どうせ独り身だ。日光浴もあんまり好きでないくらいなので、放射線浴も遠慮したい。バカだなあ、遠慮しないで、むしろ健康によいのにって、いやいやいやいや、だからおれなんかはいいから、もっとこう、健康に気を遣っている、妻も子もある人たちに薦めてあげて。


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2011年8月21日 (日)

FM/AMハンディーポータブルラジオ レッド ICF-51/R(SONY)

 ひさびさに“単機能のラジオ放送電波受信機”を買った。

 なにしろ、いまはポッドキャストやら radiko やら、いろんな方法でラジオ放送を聴くことができるので、この機械を単に「ラジオ」とは呼びにくい。ラジオ放送の電波を受信する機能というものは、なにかほかの機械の“副次的な一機能”として搭載されていることが多く、若い人の中には“単機能のラジオ放送電波受信機”を見たことがない者すらいると聞く。そんなアホなとは思うが、そうなのかもしれん。ある知人は、おのが息子に「お母さん、“テープレコーダー”ってなに?」と訊かれて愕然としたという。

 いやなに、この製品がとくにすげーというわけでもないんだが、こうなったからには、関西にだっていつまた大地震が襲ってこないともかぎらない。テキトーな値段でそこそこの性能の“電波ラジオ”を買っておくかと、テキトーに買ったのである。

 でもって、実物を手にしてみると、なにやらものすごい懐かしさが湧き上がってきて、われながら当惑した。すげー、デジタルなところがひとつもない。スイッチ類、ダイヤル類、すべてアナログ。昭和の薫りがぷんぷんする機械だ。

 なにしろ、ちゃちい。ちゃちいんだが、小さくて軽い。一般的なコンパクトデジタルカメラくらいの大きさで、ほとんどがプラスチックでできている。ブランドこそソニーだが、MADE IN CHINA である。おれが小学五年生のときに初めて買ってもらったNECのラジオは、このラジオの倍くらいの大きさがあったなあ。でも、大きさがちがうだけで、機械としてのインタフェースは、小学生のおれの愛用ラジオとほとんど変わっていない。

 ところがどっこい、こんなおもちゃっぽい筐体なのに、感度と音は存外にいい。これはさすがに、おれの子供のころのラジオをはるかに凌いでいる。災害用を念頭に置いて買ったが、この音質なら普段使いにベッドサイドに置いておいてもまったく問題ない。こういう“枯れた”機械も、やっぱり二十一世紀ともなると、枯れた機械なりに洗練はされてるのよなあ。

 ひとことで言うと、「うまい棒」みたいなラジオだね。駄菓子の域を出ない作りではあるが、がっつりとした食べ応えはちゃんとある。そして、なにより安い。

 寝苦しい夜に、暗闇の中で、こういう素朴なラジオで深夜放送を聴いていると、ああ、ラジオってのは、まだまだ絶対に滅びない、いや、むしろこれからもけっこうしぶとく、いろんなカタチで生き残るにちがいないと思う。

 おれはラジオが大好きだ。



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