2009年7月14日 (火)

生きている首

マンホールの隙間にスズメ 「どうしてこうなった」? (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/07/08044813.html

マンホールのすきまに入り込んでしまい、頭だけチョコンと飛び出たスズメ。そんな不思議な画像が2009年7月初めからネットで話題になっている。「かわいい」「どうしてこうなったのか不思議だ」といったコメントが寄せられている。

 過去のパターンだと、こういうのは「ど根性スズメ」などと呼ばれ、これでもかこれでもかと町興しに利用され、あげくの果てはクローンまで作られるという展開になりそうなのだが、まあ、世田谷区がことさら町興しなどする必要ないか。

 それにしても、なにがどうなったらこういうふうになるのだろう? 下水溝に迷い込んでしまったスズメが外へと通じる小さな穴を見つけ、そこから必死で脱出しようとしたところ、嵌まり込んでしまい、前にもうしろにも動けなくなってしまった……ということじゃないかなあ。鳥が尻のほうからみずから狭い穴に入ってゆくってのは、ちょっと考えにくいしねえ。



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2009年7月13日 (月)

チェックメイト!

都議選 民主が圧勝第1党、自公は過半数割れ (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0712/TKY200907120254.html

 東京都議会議員選挙(定数127)が12日投開票され、民主党が改選前の34議席から54議席に躍進し、自民党に代わって初の都議会第1党になった。自民は公明党と合わせた勝敗ラインの過半数(64議席)を維持できず、議長選の汚職事件をめぐる「黒い霧解散」で38議席だった65年都議選に近い惨敗。自公の敗北で与党内では衆院解散の先送り論が広がり、「麻生降ろし」が強まりそうだ。民主党は13日にも内閣不信任決議案と首相問責決議案を提出する構えだ。首相が与党の抵抗を押し切って解散に踏み切れるか、問責決議案の提出時に山場を迎えそうだ。石原慎太郎知事の都政運営にも大きく影響しそうだ。投票率は54.49%で、前回の43.99%を10.50ポイント上回った。
 「東京からの政権交代」を目指して前回の51人を上回る過去最多の58人を公認した民主党は現有34議席を上回り、第1党を確実にした。

 この石原伸晃・都連会長の写真はすばらしいなあ。「崩れ落ちる兵士」といった趣だ。「樫山晃生撮影」とある。名前を覚えておくとしよう。おれは石原伸晃はそう嫌いじゃない。自民党を中から変えたがっている一人だろうとは思う。このタイミングでこのような立場に立たされた不運な彼の複雑な心境がこの一枚の写真からひしひしと伝わってくる。惻隠の情すら覚える。だが、自民党は変われなかった。

 『自公の敗北で与党内では衆院解散の先送り論が広がり、「麻生降ろし」が強まりそうだ』とあるが、解散先送りや麻生おろしで多少なりとも支持が増えるとでも自民党がまだ本気で思っているのだとしたら、それは決定的に総選挙での惨敗を意味するだろう。むしろ、解散先送りの声も麻生おろしの声も起こらず、真正面から政策で勝負しようという声が自民党内から湧き起こり、うねりとなって多数派を占めるようなことがあれば(まずないない)、多少は総選挙での勝算があろうというものだ。ここで自民党内から、人事院に大鉈をふるう決意や、消費税を上げることに国民の理解を求める真摯な議論が出てくるものならば、腐っても鯛、さすが政権与党と見直す気にもなろうというものだが……。いまの自民党は、全然正攻法の勉強をしないくせに、偏差値がどうの試験のヤマはどうのと、その場の受験テクニックだけで入試にさえ合格できれば一生安泰とでも思っているアホ学生のようである。あの大学に受かりさえすれば、文学部でも理学部でも法学部でも経済学部でもそのほかでもとにかくなんでもいいと言っている、なにがしたいのかさっぱりわからんダメ学生のようである。

 もう盤面は“詰まって”いるんだから、解散を先送りにしようが麻生おろしをしようが、結果はたいして変わらん。というか、そのどっちをやっても、国民に見離されるばかりだ。その点、さすが小泉純一郎は、親バカではあるが、やはり腹が据わっている。自民党が下野することもあり得るし、だとしても議会制民主主義なんだからべつにあたりまえだと思っている。また取り返せばよかろうと、あたりまえに思っている。これは自民党の中では、ものすごく変わったマインドセットだと思う。変人だよねえ。国民からするとあたりまえの感覚なのだが、自民党の中で“自民党だって当然下野し得る”ということを、現実的なオプションとして常に念頭に置いている人がいったいどのくらいいるものであろうか? 目の前にドラえもんが現れるくらいにあり得ないことだと、何十年にもわたって刷り込まれてきている連中が大勢いるとおれは思う。おれは、そういう人々は、次の総選挙後に発狂するか、ショックのあまり頓死するんじゃないかと思っている。

 おれは選挙権を得てから二十六年半、ひどい風邪で身体を起こせなかった一回を除いて、すべての地方選挙、国政選挙に欠かさず票を投じてきた。自民党から共産党まで、選挙の性質をその都度考えて、いろいろな政党のいろいろな候補者に票を投じてきた(おれをよく知る人は当然だとお思いになるだろうが、もちろん公明党にだけは一度も入れたことがない。おれは宗教を必要としないし、宗教が嫌いである。よって、幸福実現党も自動的に選択肢から外す)。その多くは“死に票”になったが、おれは後悔はしていない。おれはおれの意思をその都度表明した。「おまえは何党支持なのだ?」と非難されようと、おれはおれがその都度いろいろな党のいろいろな候補者に票を投じてきたことに、恬として恥じるところはない。

 おれは十三年弱、ウェブで日記を書いているが、いままでに一度も選挙前に自分の“今回の支持政党”を表明したことはない。なんか、選挙運動みたいになるのが厭だったからだ。だが、今回、初めてその禁を破る。おれは次回の総選挙では、小選挙区も比例も、民主党に入れるつもりだ。おれは民主党の支持者なのではない。ただ、自民党を一度“ほんとうに”完膚なきまでに下野させないと、今後の日本のためによくないと考えるからだ。これまでおれが野党に入れた票は、「政権を取ってくれ」という意味ではなく、「しっかり自民党をチェックしてくれ」という意味で入れてきた。だが、今回はちがう。民主党に政権を取らせたい。というか、自民党を下野させ、官僚の中の腐った連中とのしがらみを一度断ち切りたい。そして、民主党に、官僚の癌を掃除してもらいたい。ほんとうに国を憂えている優秀な官僚たちが、ほんとうに動けるようにしてもらいたい。それから、消費税を上げる議論を真剣にしてもらいたい。「この時期に議論すらすべきではない」などとふざけたことを言ってる場合か。そもそも、議会制民主主義下において、「議論すらすべきではない」などというアホなことを代表が口にすべきではない。核武装だろうが天皇制廃止だろうが、議論すらすべきでないことなど存在しないのが民主主義国家というものだ。ともかく、増税は避けて通れないことだ。ほんとうにちゃんと使われるのなら、おれは二十パーセントくらいでもしんどいけど払うよ。おれが民主党に期待するのは、それだけだ。

 ある意味、民主党は自民党によく似ているからこそ、おれは今回あなたたちに賭けてみる気になった。自民党と官僚の癌たちは、お互いに依存していて、お互いをがんじがらめにしている。千日手だ。涼宮ハルヒの夏休みのように、ちょっとずつちがうだけで同じことを延々と繰り返している。それを断ち切ることで起こる変化に賭けてみるしかない。かといって、社民党やら共産党やらに国を預ける気になりますか、あなた? ないない。共産党はまだ、政権のチェック機関としての調査能力やツッコミ能力には端倪すべからざるものがあるから、一定の議席を与えておくことは長期的に国益に資するが(それにしても、そろそろ党名変えたらどうよ、共産党?)、社民党なんてあってもなくても同じである。旧・社会党のしがらみを断ち切って、民主党と合併したら? おれはあんたたちの北朝鮮問題に関する禊がすんでいるとは全然思っていない。公明党? まあ、節操のない政党だから、ピンチになったらどことでも野合するだろう。民主党の集票マシンとして利用する目も、いずれはあるかもしれない。集票マシンとしては、一定の存在価値はあるしな。トップが右向けと言えば都合よく全員に右を向かせることができる便利な政党だ。幸福実現党とやらも、集票マシンとしての使いみちはそのうち出てくるかもしれん。

 やれやれ、ちりめんじゃこにタコが入っているかどうかに一喜一憂するアホ日記であるべく心がけているのだが、このところ、マジで国を憂えてしまっているな。おれの身の丈に合わない。こんなの、読んでて面白くないだろう。

 ああ、それにしても、総選挙が楽しみだなあ! おれはいままでこんなに選挙が楽しみだったことはない。選挙権というもののありがたみを、いま都こんぶのように噛み締めているところだ。



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2009年7月12日 (日)

呆れるほどわかりたいもんだなあ

 夏休みを目前にして、予備校やら家庭教師派遣会社やらのテレビCMが増えてきたが、東進ハイスクールの先生が「でも、絶対わからせますから。ホントに、呆れるほどわかるほどわからせますから」と宣言するCMには、大爆笑してしまった。

 いや、べつにおれはこの先生を揶揄しているのではない。むしろ、予備校の先生としては、きわめて正しい態度だと思う。大人がこういうのを見ると、言葉の綾というものだと話半分に捉えてあたりまえだが、不安でいっぱいの自信もない受験生にとっては、とても頼もしい先生に見えるだろう。「これだけ大口を叩くからには、わからせる自信があるにちがいない。“嘘つき”と言われるかもしれないリスクをこの先生も負いながら大口を叩いている。これだけコミットしてくれるのなら、おれも死にもの狂いでついていってみようか」と思う生徒もいるだろう。医者が不安そうにしていると患者も不安になるわけで、“病気を治す・克服する”という明確な目標を前にした場合、やはり、医者は(本音では不安でも)自信たっぷりな態度を演じなくてはならない。演じることが、プラグマティックに患者のためになる。

 してみると、医者と予備校の講師というのは、とてもよく似ている。実際に病気と闘うのは患者だし、実際に入試を受けるのは生徒なのであって、医者や講師はどれだけ親身になってくれようが、しょせん当事者になることはできない“サポートの専門家”なのである。生きる気がない患者や勉強する気がない生徒を助けろといっても、それは無理な話だ。ブラック・ジャックだってそんなことはやっとられん(まあ、彼はお人よしだと自嘲しつつも、患者を生きる気にさせるところまでしばしばサポートしてしまうわけだが……)。

 で、おれがなぜ爆笑したのかというと、「呆れるほどわからせる」というフレーズが、滑稽さと真剣さがないまぜになった、じつに秀逸なコピーだったからだ。ふつう、「わかる」という動詞を修飾する言葉としてはまず使わないよな、これは。「昨夜焼きいもを腹いっぱい食ったら、呆れるほど屁が出る」みたいなことは、ふつうに言いますけどねえ。なにかが「呆れるほどわかる」状態などいうものがもしあるのだとすれば、それはぜひ一度は体験してみたいものだという気になるじゃないか。

 もちろん、おれは生まれてこのかた、いまだかつて一度も、なにかが呆れるほどわかったことなどない。これからも、たぶん死ぬまで一度もないだろう。そもそも、自分が多少は詳しいことであっても、なにかを知れば知るほど、わからないことが増えてゆくのがふつうである。なにかが“わかる”と、それまでは“わからないということさえわからなかった”ことが、ようやく“わからない”という領域に新たに浮かび上がってくる。知識が増えると、増えたぶんよりはるかに多く、未知が増える。つまるところ、わからないことが増えるということこそが、なにかがわかるということなのだとすら、おれはこの歳になってようやくしみじみ思っている。まあ、そんなこたあ、そこそこ生きてきた大人ならみんな思っているだろうし、この先生だって百も承知なのだ。そこをあえて「呆れるほどわからせる」と演じてみせるこの先生には、たしかにプロとしての気概を感じる。

 それこそ孔子じゃないが、森羅万象の真理が朝に「呆れるほど」わかったら、おれもべつにその夕方に死んだってかまわない。もっとも、呆れるほどわかってみると、「これをぜひ人にもわからせたい」という新たな欲が出てくるものなのかもしれんが……。

 「そ、そうか……。つまり、“42”だったのか!」



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2009年7月11日 (土)

準児童ポルノ

 おおお、な、なんといういやらしい画像だろう。こっそりあなただけにお教えしておこう。消されないうちにダウンロードすることをお勧めする。いい歳をした豊満な大人の女性が、性器を剥き出しにした全裸の二人の児童を戯れさせ、いやらしい笑みを浮かべならがそれを眺めている。この女性はそういう趣味なのだろうか。コーフンする。劣情を催す。これで二、三発は抜けそうだ。

 あ、しまった。リンクを張ってしまった。おれはもしかすると近いうちに逮捕されてしまうかもしれない。もし長期間更新が途絶えたら、おれはブタ箱にぶちこまれていると思ってください。しばしのあいだ、さようなら、みなさん。



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2009年7月 9日 (木)

ストレス解消

 駅のホームでチューインガムを踏んだ。ひょっとしたらフーセンガムだったのかもしれんが、何ガムであろうと知ったことではない。腹立つ。駅のホームにチューインガム(フーセンガムかもしれんが)を噛み捨てるとは、まったくどういう神経であろうか。親の顔なんか見たくない、本人の顔が見たい。

 おれはこういうとき、掛け値なしの殺意を覚える。哀川翔じゃないが、もし自分の子(おらんけど)がこのようなことをしていたら、半殺しにしてやろうと思う。

 おれに恨みがあって、おれにチューインガム(フーセンガムでもいいが)を踏ませてやろうと企み、物陰からおれが不快な顔をするのを見てけけけと楽しむというのなら、まだ人としてその気持ちはわかる。しかし、このガムの主は、おれを狙ったわけではない。ここにチューインガム(もうチューインガムにしとこう)を噛み捨てたら、“誰か”がおそらく踏むだろうが、かまうものかと思って噛み捨てているのである。またそれを“誰か”が掃除するのだろうが、その誰かは掃除が仕事なのだからかまうものかと思っているのである。「誰でもいいから殺したかった」というのと、程度の差こそあれ、方向性は変わらん。こんなやつは人間じゃねえ! 叩っ斬ってやる! (ふるー)

 と、おれは同田貫を右手にホームを見まわしたが、誰を叩っ斬ったものかわからない。行き場のない怒りが、さらにふつふつと湧き上がってくる。

ドラえも~ん!

 おれはドラえもんを呼んだ。こんなとき、彼ならなんとかしてくれるにちがいない。

 ドラえもんはたちまちひみつ道具を出した。♪チャッチャカチャッチャッ、チャーチャー、チャ~~~

ゴーバック・スプレー!

 はて、ユービック・スプレーなら聞いたことがあるが、これはいったいどういうひみつ道具なのだろう?

 ドラえもんは、ホームにへばりついている手近なチューインガムにゴーバック・スプレーを噴射した。

 すると、どうだろう! チューインガムはもこもこもこもこと蠢いたかと思うと、宙に飛び上がり、ものすごいスピードでビル街のほうに飛んでいった。聞けば、いまごろ、これを噛み捨てたやつの口の中に飛び込んでいるはずだと言う。

 これは痛快だ。

 おれはドラえもんからゴーバック・スプレーをひったくると、点字ブロックの上でてらてらと光っている薄緑色をした痰の塊に噴射した。痰はなにかを思い出したかのようにおれの目の高さまで舞い上がると、二十メートルほど離れたところでケータイを覗き込んでいるスーツ姿の男の口に飛び込んでいった。

 いいねえ!

 気をよくしたおれが、喫煙コーナーのそばでとぐろを巻いていたウンコにゴーバック・スプレーを噴射すると……。



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2009年7月 8日 (水)

残酷な数字のテーゼ

アニメ映画「ヱヴァンゲリヲン」 信じられない低視聴率のナゾ (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/07/07044828.html

日本テレビ系で放送されたアニメ映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の視聴率が12.7%(関東地区)という予想外の低さになった。高視聴率を予想する向きもあっただけに、「何かの間違いだろう」といった見方も出ていた。その真相は?

(中略)

アニメに詳しいジャーナリストは、アニメファンのここ数年の傾向として録画してから見るという人が増え、「Gガイド・テレビ王国」のランキングでもランキングの上位にアニメが登場する事が増えたと、分析している。また、「ヱヴァンゲリヲン」の場合、小さい子供やお年寄りには馴染みが薄く、ファンは学生や社会人中心。放送時間には外出している場合が多いため、ジブリの「千と千尋の神隠し」のような視聴率にならないのは当然だ、と話している。
ビデオリサーチの視聴率には録画が含まれていない。そのため、リアルタイムにテレビを見る数だけでは正確さに欠ける、などの議論が繰り返されてきた。ビデオリサーチは07年7月2日、現状の視聴率調査に加え「Gガイド・テレビ王国」が行っているようなパソコンによるテレビ視聴を、11年7月を目途に調査に加える方針を明らかにした。また、録画された番組が実際に視聴されたかどうかを認識する技術の開発を進めるという。

 わはははは、旧来の“視聴率”というものがこれほどわかりやすく崩壊すると、なかなかに痛快なものがあるな。おれも録画しながら観たが、リアルタイムで観たわけではない。つまり、CMがうっとうしいので、おれは観ようと思えばリアルタイムで観られるものでも、わざと十分から十五分ほど遅れて“追いかけ再生”で観はじめ、CMを跳ばして観ているうちに徐々にリアルタイムに追いつき、終わるころにはほぼリアルタイムで終わるような観かたをするのが常だ。ハードディスクレコーダのなにが便利と言って、こういう“追いかけ視聴”ができるようになったところが革命的だった。同時に「旧来のテレビCMは死んだ」と思ったね。

 エヴァの視聴率が低かったって? そりゃそうだろう。たとえば、サザエさん一家が茶の間に集まって、みなで『千と千尋の神隠し』をリアルタイムで観ている図は自然に想像できるが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観ているところなど想像もつかん。


  波平 「なんじゃ、『序』にはアスカは出んのか?」
  フネ 「お父さん、いい歳をしてなんですか」
  波平 「そういう母さんだって、冬月萌え~じゃないか」
  マスオ 「ぼくはレイ派ですから」
  タラ 「ぼくはペンペンでちゅ~」
  サザエ 「あら、ミサトの冷蔵庫に入ってるビールの銘柄がテレビ版とはビミョーにちがうわ」
  ワカメ 「ホントだぁ」
  カツオ 「それにしても、こんなすごい技術がある時代なのに、どうしてシンジはカセットテープなんか聴いてるんだろう?」
  マスオ 「そのあたりの狙いは、大人になればわかるよ、カツオ君」
  フネ 「ほらほら、シトが来ましたよ」
  波平 「ヤシマ作戦はいつ観ても興奮するのう」
  マスオ 「そうだ、明日、みんなで『破』を観に行きませんか、お父さん?」
  波平 「そりゃあいい」
  カツオ 「わーい、明日はみんなでヱヴァンゲリヲンだ!」
  タラ 「ヱヴァンゲリヲンでちゅ~」
  サザエ 「あたしみたいなおばさんが映画館でどんな顔したらいいのかわからないわ」
  カツオ 「笑えばいいと思うよ」
  一同 「あはははははははははははははははははははは」


 き、気色悪ぅ~。あり得ねー。もし、あり得たとしても、おれはこういう家庭では育ちたくねー。《エヴァンゲリオン》とか『ブレードランナー』とかいうものは、夜中に独りで自分専用のテレビかパソコンかポータブルDVDプレイヤーで観るもんだ。そういえば、『ブレードランナー』だって、劇場公開時にはぱっとしなかったのに、ビデオが出てから急速に人気が出たんだよね。独りで“浸る”のに向いた作品ってのは、あきらかにあるのだ。一家団欒の茶の間で、家族がみな同じ番組をリアルタイムで観るなどという昭和的な風景をいつまでも想定モデルにしていたのでは、意味のある視聴率調査はできない。

 ま、近い将来、面白い技術を駆使した視聴率調査方法が出てくるんだろうね。顔認識技術を用いたデジタルサイネージの視認効果測定方法みたいなものが、視聴率調査世帯のテレビに実装されるようになるかもしれん。

 テレビに内蔵された抽斗のようなものがぱかっと開いて、中からクッキーが出てくる。視聴者がそのクッキーを食うと、練り込まれたマイクロマシンが長期的に体内に定着してRFIDタグとして働き、AV機器が個々人を識別して……。そ、それはちょっとディック的すぎるか。



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2009年7月 7日 (火)

題して、「自民党」

Swallows

 サミットの晩餐会用に燕尾服を着ている右っかわのやつが麻生首相。たぶん。



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脳生は人の生か?

 「脳死は人の死か?」というのは、マスコミがしょっちゅう問うていることなのだが、だったら、二十一世紀においては、「脳生は人の生か?」ということも、そろそろ真剣に問わなくてはならない。なぜなら、バイオテクロノジーの進歩によって、脳という組織だけを単独で発生させ培養することも可能になるだろうし、コンピュータ技術・ソフトウェア技術の進歩によって、相当“強い人工知能”を開発することも可能になるだろうからである。

 たとえば、事故などで脳以外の機能がまったく“死んで”しまった人は、脳が生きているかぎり、法的にも生きていると認めなければおかしいだろう。

 日本人が文化的になかなか脳死を人の死だと認め難いメンタリティーを持っていることは、おれも実感としてよくわかる。しかしそれは、裏返せば、脳生を人の生だとも認めがたいということなのではあるまいか? たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 日本人が人型ロボットをあっさり受け入れられる背景には、案外、脳死を人の死として受け入れ難いメンタリティーが関係しているのではなかろうか? つまり、人のカタチをして人のようにふるまうものは、それが“生きた脳”を持っていようがいまいが、人の一種として受け入れられる心性があるのでないか? それとも、たとえそれが機械の“心”を持っていようが、そんなものは“人の生”としては受け入れられないので、どんなに人間に近い人工物ができようとも、人間を脅かすものとは到底捉えられないがために、安心して受け入れられるということなのだろうか? わからん。おれには、まだわからん。

 いずれにせよ、これからの時代は、「脳死は人の死か?」という問題と表裏一体のものとして「脳生は人の生か?」と、おれたちは問い続けてゆかねばならないのではないかと思うのである。



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お買い上げ御礼(2009年6月)

■2009年6月

【最も値段の高いもの】

 おれもブラウンのを使っている(なんかこう、刃物と文房具といえばドイツ製みたいな偏見があるのだ)けれども、こりゃ最高級ランクのやつだよなあ。きっと、お洒落な人が買ったのだろう。おれのはせいぜい実売七、八千円のやつだよ。

【最も値段の安いもの】

 てっきり宮本武蔵関係の本かと思ったら、オリンピック関係の本だった。以前、『時速250kmのシャトルが見える トップアスリート16人の身体論』って本を紹介したことがあったが、なんとなくこれもそれっぽい本みたいだな。

 アフィリエイトをやってて面白いのは、煙草代程度の小遣いが稼げるという実利だけじゃなくて、“おれのブログを読むような人がどんなものを買うのか”というのを知ることができる点だ。事実、人がおれの知らない面白げなものを買っているのを見て、おれ自身が買ってしまったことが何度もある。おれのサイトからアマゾンに跳んだ人がなにを買ったかをウォッチすることで、おれ自身が逆レコメンド(?)されて買ってしまうことが、しばしばあるのである。アマゾンは笑いが止まらんだろうが、おれはおれで便利なので、これでいいのだ。

【最も多く売れたもの】

 該当なし。売れたものはみーんなひとつずつ売れたのである。

【最もケッタイなもの(主観)】

 最近、こういう“萌え系”の科学本がいろいろ出ていて、まことに嘆かわしくも喜ばしいことである。おれは買ったことないんだが、萌え科学本を立ち読みしていて感じるのは、“萌えとは擬人化と見つけたり”ということである。べつに最近の若者でなくたって、おれたちくらいのおじさんでも、多かれ少なかれ、物理やら化学やらを擬人化して理解していることはたくさんある。「光は直進している“つもり”なんだが、空間のほうが曲がっているので……」とか、「カリウムのほうがナトリウムよりイオンに“なりたがる”ので……」とかいった具合だ。根っから抽象的思考が得意な理科系の人は擬人化なんかしたりしないのかもしれんが、少なくとも、おれみたいなベタベタの文科系の人間は、擬人化したほうがわかりやすいという気持ちは理解できる。科学系の萌え本ってのは、そういうメンタリティーを狙ったものなのだろうと思う。

 科学を萌え本にするとはふざけておるという見解もありましょうが、どういう様式であろうが、要するに、理解しちゃったほうが勝ちなのである。

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2009年7月 6日 (月)

こりゃ、いまの日本には絶対作れないものだよなあ

米連邦政府,IT支出情報の開示コーナー「IT Dashboard」と専用YouTubeチャンネルを開設 (ITpro)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20090701/332965/

 米連邦政府の最高情報責任者(CIO)であるVivek Kundra氏は米国時間2009年6月30日,政府の支出情報公開サイト「USASpending.org」内に,IT支出情報の開示コーナー「IT Dashboard」(ベータ版)を新設したと発表した。またビデオ共有サイト「YouTube」内に専用チャンネル「USAspending」も設けた。
 IT Dashboardでは,国防総省(DOD)や国土安全保障省(DHS),保健社会福祉省(HHS)といった組織におけるIT支出状況や投資プロジェクトの件数などをグラフ形式で示す。全体的な状況に加え,組織ごとの支出や進ちょくも確認できる。更新情報のRSSフィード配信も行う。
 グラフなどは,各組織から連邦政府の行政管理予算局(OMB)に提出されたデータから生成する。7000件以上あるIT投資プロジェクトの概要を掲載するほか,800件弱の主要プロジェクトについてはより詳細なデータを公開している。

 ううううむ。わしゃ、この IT Dashboard を見て、orz とくずおれたよ。すげー。

 こういうものを作るITの技術力がすごいと言っているのでは、もちろんない。この程度のものを作れる技術者なら、日本にもうようよおる。そこいらへんにいっぱいおる。作れる技術力なら、日本だってアメリカに勝るとも劣らん。だが、作らせることができるリーダーシップとコラボレーションの体制に関しては、彼我の差はまるで大人と子供、いや、大人と赤ん坊だ。作れる技術は十二分にあるのに、作らせるほうがボンクラなので、日本にはせいぜいこの程度のおもちゃしか作れない。な、情けねー。「そんなことはない」という政治家やお役人方、じゃあ、作ってみろよ。賭けてもいいが、絶対に作れないから。どんなに優秀なIT技術者を大量に雇っても、金を湯水のように注ぎ込んでも、絶対に作れないから。その理由は、あんたがたがいちばんよく知っているはずだ。

 このオバマ政権の IT Dashboard の開発に携わった技術者を全員日本にヘッドハントしてきて日本の“電子政府の総合窓口”とやらを作らせたとしても、現状と似たり寄ったりのろくでもないものしかできないと断言できる。つまるところ、問題の本質はじつに簡単なことなのだ。つまり、ITの力を引き出せるかどうかは、コンピュータ技術の問題でもなければ、ソフトウェア開発技術の問題でもないということである。

 それにしても、こういうもんをちゃちゃっと作らせることができる(“作ることができる”ではない)アメリカ合衆国という国は、虚心坦懐にすごいと思うね。

 よく、日本人は個人プレイよりもチームプレイが得意だとか、アメリカ人は一人ひとりが自分勝手だから集団行動が苦手だとか、根拠のない(事実に基かない)印象だけでほざく人がおるが、おれはその手の思い込みは笑止千万だと思う。アメリカ人は、互いに異質でバラバラのやつらが、まとまればまとまるほど賢く強くなってゆき、日本人は、個々人は優れている均質なやつらが、集まれば集まるほどアホになり弱くなってゆく。

 チームプレイが得意な国で年金が消えたりするかよ。党利党益、省利省益しか考えていない政治家と役人が馴れ合って国民不在の政治と行政を自分たちだけのために回し、そんでもって、それだけコケにされても、ろくろく選挙にも行かない国民が大勢いる日本人の、どこがチームプレイが得意なものか。あの、大多数はどう見ても能天気な阿呆としか思えないアメリカ人どもが、なぜ世界の頂点に立っているのかを、もう一度、虚心坦懐に見つめ直すべきだ。やつらは、いまのおれたちにはないものをたしかに持っている。それは“多様性というのは善である”という、たしかなマインドセットだ。そりゃあ連中だって、多様性の善を否定するようなことをしてきた。しかし、やつらは、それを自浄する能力を持っている。これは手強い。多様性の善は、生物界に於いて、三十八億年以上の実績を以て証明されてきた強力な戦略だからだ。これを国家存続のための哲学とした国は、絶対に侮れん。

 日本は、このままで行けば、数十年後には、中国の“ヤマト自治区”になっているか、アメリカの五十一番めの州になっているか(まあ、いまだってそうだという見解もある)のどっちかだとおれはマジで思うのだが、どっちかを取れと究極の選択を迫られたら、おれは日本をアメリカの五十一番めの州にしたい。むろん、独立国であることが、いちばんいいに決まっているのだが……。

 おれは思うのだが、日本人というのは、ステレオタイプな日本人像とはまったく異なり、組織やシステムの不備や怠慢を、個人個人の優れた能力と自己犠牲で切りまわしてきた、世界にも稀に見る“個人プレイ”が得意な民族なのではあるまいか? “和を以て尊しとなす”という言葉を、誰よりもはきちがえてきたのは、当の日本人なのではないかと、最近切に思うのだ。

 いまこそ日本人は、ほんとうのチームプレイ、多様性を善とするチームプレイというものを学びはじめなくてはならないのではなかろうか? その最良の教師は(反面教師も含めて)、やっぱりおれはアメリカ合衆国だと思うのだ。はっきり言って、やつらは、いまの日本人よりも、はるかにチームプレイが得意である。そうじゃないと言うあなた、たとえば、在日朝鮮人の二世や三世や、中国残留孤児の二世や三世が、能力さえあれば、近いうちにこの国で議員や大臣や首相になれると思うか? アメリカ合衆国という国の連中は、それに近いことを、すでに実際にやってのけているのだ。



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